カトリック作家の原郷─遠藤周作『沈黙』の“声”
遠藤周作は晩年近くの平成四年(一九九六)、『文學界』の二月号に「二つの問題―堀辰雄のエッセイについて」と題し、戦争末期、当時東大哲学科の講師だった吉満義彦の紹介で、友人ととともに成宗にあった堀辰雄宅を訪れたときの回想を寄せている。
その時、堀から次の様な疑問を投げかけられたという。
「君たちはカトリックですか。西洋人の作家が色々な思想をさまよったあと、カトリックにすうっと戻る人がいるでしょう。ああいう風にすっと還るところが日本人にあるとすれば何でしょう」
当時堀は、「花あしび」と題し、大和、奈良の御仏の世界を歩きながら、自分が還る世界を探し求める、といった日記風のエッセイを発表していた。
これを読んだ遠藤は、堀がひかれたのは「御仏の背後にある日本的な汎神世界である」と考えていたという。
そうした堀との邂逅から遠藤は、戦後になって神西清の編輯する『四季』に、「神々と神と」というカトリックと文学についてのエッセイを発表することになった。
いうまでもなくここでの「神々」とは日本的な汎神論の世界、それに対して「神」とは一神教的なカトリックの世界観である。
例えばこの「神々と神と」では、同じ汎神世界でありながら、〝リルケ的人間〟の姿勢は端から能動的であるのに対し、「堀氏の場合は人間は神々の一部分であり、神々と人間とのあいだにはいかなる存在本質の差」も認められず、「そこで人間は自然や宇宙といったものにそのまま還ることが出来る」(新潮社『遠藤周作文学全集第十巻』昭五〇)といった具合に、堀文学の〝受身のうつくしさ〟に早い時期から着目している。
このエッセイは、事実上、遠藤の処女作となるが、晩年『深い河』を執筆した遠藤は、嘗ての様に「神々と神と」といった対立から、宗教的多元主義に傾いていくことになる。
堀との出会いから一年後、仏文科でモーリヤックのエッセイ「小説家と作中人物」を教材として読んだことがきっかけで、遠藤は「テレーズ・デスケルウ」を愛読するようになった。
以来、「宗教と無意識、無意識による罪」が自作のテーマになったというのである。
そして後年、昭和四十一年(一九六六)三月に新潮社から刊行された『沈黙』によって、遠藤は、堀から投げかけられた疑問を自分なりに突きとめ、作品化するに至る。
『沈黙』は、島原の乱後のキリシタン禁制の日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴが、信徒たちに加えられる残忍極まる拷問に苦悩し、遂に自身も背教の淵に立たされる、といった物語である。
「神の沈黙」といった重厚なテーマに挑んだこの小説は、第二回谷崎潤一郎賞受賞作品となる。この作品は初版刊行の折から、「長編小説『沈黙』の問題点―私は『沈黙』をこう読んだ―」と題した解説が附録として挟み込まれ、江藤淳、会田雄次、河上徹太郎、竹山道雄、アルマンド・マルティンス…といった数々の評者の批評に恵まれることになった。
亀井勝一郎もこの栞の冒頭で「感想」と題した短い作品評を寄せている。ここで亀井は、「『神は本当にゐるのか』といふ問ひの切実さが、この作品のリアリティを決定してゐると、まづこれだけのことは言つて差し支へあるまい」と評している。
神仏との葛藤といったテーマ自体、長年の亀井自身の批評モチーフでもある。
特に亀井は、この作品の山場で、主人公が踏絵に足をかけた際、基督の「哀しそうな眼差し」から発せられる次の言葉に着目する。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
背教者とともに苦しみを見せる基督の姿に、亀井は「日本の浄土信仰に近い感情」を見出している。
この書評を寄稿した当時、亀井は、そのライフワークにあたる『日本人の精神史研究第五部』の執筆に取りかかっていた。
この年四月に出された第四部は室町時代を扱ったものだから、この次はいよいよキリスト教伝来にあたる近世に入る段階である。
しかし、その後、癌再発のため入退院を繰り返した彼は、数ヶ月後の十一月十四日、遂に五十九歳で帰らぬ人となった。
遠藤周作は、昭和五十年(一九七五)に新潮社から出された『遠藤周作文学全集第十一巻』の「月報8」に連載された「あの人、あの頃」の中で、「亀井先生のこと」と題し、戦争末期、吉祥寺にある亀井家を訪れた時の回想とともに、最晩年の亀井を見舞った時の体験を綴っている。
その時亀井は「ぼくも今は親鸞教になってしまった」と呟き、さらに「これからぼくの連作もいよいよ、切支丹に入る。君、本を貸してくれないか」と、その後の精神史研究の構想を語ったという。
結局この第五部は、亀井の病状悪化によってキリスト教伝来について言及することすらできなかった。
遠藤はこの時の亀井の様子から、亡くなる直前に切支丹を背景にしたライフ・ワークを準備した堀辰雄の姿を想起したという。
遠藤は昭和四十四年(一九七一)九月、大和書房から刊行された亀井勝一郎のエッセイ集『三人のマリア』の解説「美と信仰に裂かれて」の中で、「内村鑑三の武士道的プロテスタンティズムを経て親鸞の教えに近づいた」亀井の宗教遍歴に強い関心を示している。
「鑑三のプロテスタンティズムはいわばきびしい父親のように命じ、怒り、裁く。それにたいし親鸞の教えは、一言でいえば母親が我が子を許すように許すのである」(『遠藤周作文学全集第十巻』)
「父の宗教・母の宗教」といった遠藤の宗教観は、『沈黙』から一年後の昭和四十二年(一九六七)、『文芸』一月号に掲載されている。
「一般に日本庶民の宗教心理には意志的な努力の積み重ねよりは絶対者の慈悲にすがろうとする傾向が強い。つまり基督教精神学でいう恩寵(おんちょう)重視の傾向でこれはカトリック的というよりはむしろプロテスタント的である。そして自分より大きなものの慈悲にすがろうとするこの心情の原型はあきらかに母にたいする子の心理である」(同前)
こうした「日本的な母の盲目愛、日本的母の抱擁力をもつ宗教」は浄土宗などに典型的に見られ、かくれ切支丹がマリア観音を求めたのも、そうした日本庶民の宗教心理に根ざしたものではないか、と遠藤は読みとるのである。
これはまさに遠藤の『沈黙』に「日本の浄土信仰に近い感情」を見出した亀井の評言とも繋がる見解といってよい。
先程の「亀井先生のこと」の中でも、遠藤は、学生時代における亀井のマルキストからの転向体験について、「…文学と求道、美と求道とのいずれをも選択できず、内村鑑三のように求道のために文学を捨てるという強い性格も持てなかった『弱さ』に氏は苦しんだにちがいない」と推測する。
これはカトリックの家庭に生まれ育ちながらも、その信仰に徹することができなかった、遠藤自身の苦悩を重ねた評言といっていいかもしれない。
龜井も昭和三十一年(一九五六)、『知性』十月号に発表した「遠藤周作について」の中で、「カトリックの教を心にふかく堅持し、しかもおもてにそれを全くあらはさないやうな作品と、東洋あるひは日本固有の劇(それはヨーロッパのそれとは全く異質のものだが)を発見すること」といった二つの問題が、遠藤文学の当面の課題となるであろうことを、早くから予測していた。
おそらく亀井の精神史研究が近世における鎖国の時代まで書き継がれることになれば、切支丹弾圧における棄教の問題を、自身の転向体験と重ねて論じることが可能となったはずである。
これらの両者の問題意識の共有からも、その後、近世における日本人のキリスト教受容の問題について考察を続けた遠藤の創作活動は、或る意味で未完に終った亀井の精神史研究の課題を引き継ぐものとなったといえるのではないだろうか。
遠藤自身は関東大震災のあった大正十二(一九二三)年に東京に生まれ、十一歳でカトリックの洗礼を受けている。
これも実は親からの導きによるもので、本人の意志から自発的に洗礼を受けたわけではなかった。
そのことが、その後の「日本人とキリスト教」といった遠藤文学のテーマの出発点ともなっている。
遠藤自身は長崎出身ではないが、カトリックである自身の「心の故郷」として何度も訪れていたようである。
切支丹時代の長崎について、遠藤は「私の心の故郷」の中で、「ヨーロッパの文化のなかでも最も源流をなすもの―あの基督教とまともにぶつからねばならなかった。まともにぶつかったが故に、多くの迫害と多くの殉教とがあった」と述べている。
そして「長崎出島という小さな埋立地」を通して、「鎖国の間も日本が西欧の空気をほそぼそと知った」ことに、一つの可能性を見出している。
興味深いことに、遠藤は『沈黙』の時代設定を、日本におけるキリシタン全盛期ではなく、禁教の取り締まりが最も厳しかった島原の乱鎮圧直後にしている。
ポルトガルの司祭ロドリゴが、禁制下の日本に潜入し、トモギ村という部落でかくれ切支丹に遭遇することになる。
ところが日本人信徒キチジローの密告で捕縛され、長崎へ連行されることになった。
そこで加えられた日本人信徒への拷問のあまりの残虐さに、このままキリスト教を信じ続けるべきか、棄教すべきかの瀬戸際に立たされる。
西洋文学では、例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のように、神を信じるべきか否かといった問題が、作品の大きな主題となることが珍しくはない。
殉教と背教の相剋が、物語に緊張感と深みをもたらすものといえる。
その辺りは一般に多神教の国とよばれ、長い神仏習合の歴史をもつ日本人には理解の届かない世界観かもしれない。
そうした中、遠藤周作の『沈黙』は、西洋文学の普遍的なテーマを受け継ぎつつ、極めて日本的な宗教観を作品の中で見出していると思われる。
物語のクライマックスでは、ロドリゴが踏絵に足をかけようとする時の煩悶の心理が描かれている。
その瞬間、ロドリゴは「あの人」の内なる声を耳にする。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。…だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私がいるのだから)
ここでいう「あの人」とは誰か。
改めて説明までもなく、踏絵に描かれた十字架のキリストそのものにほかならない。
いや、正しくは、踏絵に足をかける信者の心の苦しみを表した声ともいうべきかもしれない。
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」という声がさらに続くが、果たして厳格なカトリックの世界で、このような神の「許し」が考えられるのだろうか。
その辺りについては遠藤本人が、昭和四十二年(一九六七)の『文藝』一月号に発表されたエッセイ「父の宗教・母の宗教」の中で詳しく述べている。
この文章で遠藤は、日本の庶民のキリスト教受容のあり方として、かくれ切支丹のマリア観音に着目している。
「一般に日本庶民の宗教心理には意志的な努力の積み重ねよりは絶対者の慈悲にすがろうとする傾向が強い。つまり基督教精神学でいう恩寵重視の傾向でこれはカトリック的というよりはむしろプロテスタント的である。そして自分より大きなものの慈悲にすがろうとするこの心情の原型はあきらかに母にたいする子の心理である」
こうした「日本的な母の盲目愛、日本的母の抱擁力をもつ宗教」は、浄土宗などに典型的に見られ、かくれ切支丹がマリア観音を求めたのも、そうした日本庶民の宗教心理に根ざしたものではないか、と遠藤は読みとるのである。
もちろん日本の神社にも、天満宮のように元々菅原道真の怨霊を鎮めるものであったり、また寺においても、不動明王や蔵王権現といった怒りの形相の仏像もあり、遠藤のいう厳格な「父の宗教」も確かに存在はしている。
禅のように厳しい修行を自らに課す仏教もあれば、法華宗や一向宗のように命懸けで権力に立ち向かった宗教も存在する。
しかしそれらの宗派は、必ずしも一神教のように徹底的な「殉教」を強いたわけではなかった。
キリシタン禁教下で宗門改、寺請制度が定着していくと、例えば北陸では、武家が禅、庶民が浄土宗、といった具合に、身分別に緩やかな棲み分けがなされている地方もある。
その意味で遠藤が、マリア観音に「母の宗教」を求めたかくれ切支丹に、かつて浄土宗を信じた日本の庶民感情との共通性を発見したのは、作家としての一つの見識を示すものだったといえる。
これまで日本では、古来からの神道を基盤に、仏教や道教、儒教といったあらゆる外来の宗教を比較的寛大に受け容れてきた。
同様にザビエル来日以降の日本も、当初はカトリックのイエズス会が広めたキリスト教を、大らかに受け容れたように見える。
しかしながら、そうした日本の“切支丹”も、半世紀も経たないうちに、時の施政者の圧力によって強制的に排除されることになる。
そもそも一神教の思想自体が、神道や仏教との共存を許すことはなかったからだ。
その上、幕府の権力統治の基盤となった儒教も、神への服従というキリスト教の考えとは相容れることはなかった。
鎖国の是非は突き詰めるほど難しい問題である。
もし幕府の禁教政策がなかったならば、日本の近代化はもっと早まったかもしれない。
しかしながらキリスト教が日本全土に浸透し、西洋の世界進出に巻き込まれながらも獲得された“近代”は、果たして日本人にとって幸運な選択だったといえるだろうか。
一方、国内の平和と安全を優先した鎖国政策は、閉鎖的な身分制度と封建的な社会秩序を継続させることになった。
世界史上の大航海時代に初めて巻き込まれた日本は、両者の瀬戸際に立たされ、多くの犠牲を払いながらも、最終的に後者を選択することになったのである。