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近現代文化の諸問題 第7回 二重化する生活空間~谷崎潤一郎『陰翳礼讃』~

 和辻哲郎が阿部次郎とともに、一高時代に親しくしていたもう一人の人物がいます。昭和期を代表する文豪の谷崎潤一郎です。
 稀代の哲学者の和辻と、晩年まで男女の情愛を描いた作品で文名を高めた谷崎との交流は意外に思われるかもしれません。
 しかしながら、もともと和辻は戯曲などの創作の才能があるほどの文学青年でした。
 早くから海外文学を英語で愛読していたのも和辻でした。

 ある日、和辻が読んでいたワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を谷崎が借り、返却する時、谷崎は和辻にこう言い放ったそうです。

「大変面白く読んだ、しかし僕は君がアンダーラインをしていないところの方を一層面白く読んだ」(「若き日の和辻哲郎」~『心』昭和36年3月号)

 さすがに文才に関しては谷崎にコンプレックスを懐いていた和辻は、以降、哲学を中心に抽象的な思索を深めていくのでした。
 今回紹介するのは、その谷崎の代表的な随想「陰翳礼讃」です。
 こちらは建築をテーマに、関東大震災後に急速に洋風化していった日本文化について、独自の視点で分析しています。

 第4回での田山花袋の『東京の三十年』でも概観しました通り、関東大震災を機に、江戸の名残りが消え、現代の「東京」につながる都市計画がなされた大正末から昭和初期。人々の防災意識も高まり、市民が、都心部から郊外へ移り住むようになったほか、次第に住居が和風建築から洋風建築へと移りゆくようになりました。
 昭和5年には「復興祭」が催されるなど、わずか8年ほどで東京は、震災の廃墟から目覚ましい発展を遂げております。
 そうした震災から十年近く経った昭和8年、日本の伝統建築や食器などの中に「陰翳」の美学を発見したのが、谷崎潤一郎のエッセイ「陰翳礼讃」です。

 谷崎というと『刺青』や『春琴抄』『吉野葛』といった代表作にも象徴されるように、日本の伝統美を追求した耽美派の作家として知られています。
 その一方で、彼が生まれたのは明治19年で、前回紹介した和辻哲郎よりは3年ほど年長にあたります。すでに日本の文明開化が始まった時代です。
 東京の日本橋蛎殻町の裕福な家庭に生まれ、幼少期から早熟な文才を発揮した彼は「神童」ともいわれておりました。
 学校成績も優秀で、本来は東京帝国大学の法学部に進むほどの学力のあった彼ですが、敢えて国文学を選んでおります。
 しかし、父の事業の失敗が重なり、谷崎家は零落。間もなく学費滞納で大学を退学に追い込まれています。

 同時にその頃、和辻哲郎らとともに『新思潮』を創刊し、『刺青』を発表。その才覚を尊敬する文豪・永井荷風にも見出されていました。
 私生活では、三回の結婚。特に初婚の妻・千代子夫人を、佐藤春夫に譲るなど、その恋愛遍歴とともに新しい作風に挑み、文壇スキャンダルでも注目され続けた人でした。

 とりわけ日本における近代から現代への分岐点となった関東大震災を境に、兵庫県の芦屋に逃れ、京都にも移住。以降、その創作の拠点を関西に移しますが、それに伴い日本の伝統的な美意識に傾倒を深め、作風を大きく変えていきました。
 『陰翳礼讃』は昭和8年12月から翌9年1月まで『経済往来』に連載された作品ですが、その数年前に、『吉野葛』や『蘆刈』『春琴抄』といった日本の伝統美に根ざした小説を発表し続けていることにも注目されます。
 三人目の妻となる松子夫人と結婚した昭和10年には、『源氏物語』の現代語訳にも着手。与謝野晶子の『与謝野源氏』と並んで、『谷崎源氏』と評せられ、独自の翻訳を切り拓きます。
その後、戦争が始まった昭和17年には熱海で別荘を購入。そこで生まれたのが、代表作ともいえる『細雪(ささめゆき)』です。
 『細雪』は、戦意昂揚が叫ばれた昭和18年、『中央公論』誌上で連載が始まりましたが、軍部の弾圧に遭い、三回以後、掲載が禁止となった曰く付きの作品でもあります。
 
 その後、熱海から岡山へ疎開、京都へ移るなど各地を転々としますが、『細雪』が完成するのは、敗戦後の昭和23年末のことでした。翌24年にはこの作品で朝日文化賞を受賞、同年には第8回文化勲章も授与されています。
 その後、病気の入退院を繰り返しながらも、再び熱海に別荘を購入後は、『鍵』や『夢の浮橋』『瘋癲老人日記』『台所太平記』などの新作を発表し続け、川端康成とともに数回にわたってノーベル文学賞の候補者にも推薦されております。
 この様に、昭和40年に亡くなるまで、精力的に作品を書き続けた作家でしたが、早い時期からモダニズムの影響を受けており、彼の日本文化論も、一端モダニズムの洗礼を受けた視点で書かれていることに留意する必要があります。

 先ほど述べたように、大正末期から昭和初期の時代は、関東大震災を機に、これまでの都内に残存していた江戸の名残が消え失せた時代です。一方、人々のライフスタイルが次第に近代化に向かう中、依然として大部分の家では畳敷きの和の空間が残された時代でもあります。電気やガス、水道といったインフラも整備されていくと、従来の和の住宅と、近代的な電化製品とのミスマッチが生じ始めます。
「陰翳礼讃」の冒頭でも次のように書き起こされています。

>今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯や水道等の取附け片に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、じぶんで家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。<

 現代では、老舗の日本料理店や旅館などでも、純日本風とも見える畳敷きの部屋の中に、最新式の電化製品が置かれている風景は決して珍しくはありませんが、ここでは、まずそういった和洋折衷によって生じる齟齬が指摘されます。
 いくら「日本風」の造りを心掛けていても、今や暖房や照明といった近代的な設備を排除することができないというのです。部屋のスイッチやコードを畳の部屋にどう隠すかなど、今ではすっかり見慣れたてしまった光景も、当時としてはまだ違和感があったことが偲ばれます。

 エアコンに対して、煽風機などは今や昭和風のレトロ家電の一つですが、谷崎は、「あの音響と云い形態と云い、未だに日本座敷とは調和しにくい」と述べています。むしろ茅葺きの農家で、裸電球が灯っているのを見ると、「風流にさえ思える」とまで述べているほどです。
 電燈についても「行燈式のもの、提燈式のもの、八方式のもの、燭台式のもの…」といった具合に、当時の人々がいかに電燈という近代式の照明を、日本建築に合わせようとしたか、苦心のほどが察せられます。

 トイレについてはタイルの利便性を認めながら、「天井、柱、羽目板等に結構な日本材を使った場合、一部分をあのケバケバしいタイルにしては、いかにも全体との映りが悪い」と酷評しています。むしろ谷崎は、京都や奈良の寺院に見られる「昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠」に日本建築の美質を見出しています。

 当時江戸下町の中心地だった日本橋生まれの谷崎にとって、震災後、変わりゆく東京を目の辺りにしたことで、京都や奈良といった伝統文化が残る古都は、丸で異郷のように美しいものに見えたのかもしれません。もちろん「厠」の中に日本的な「風流」を見出すなど、かなり谷崎個人の主観が入った独特の世界観であり、このエッセイから日本人の一般的な美意識を普遍化させるのは、極めて危険のように感じます。


>日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔つばを小さくし、日光の直射を近々と軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろ/\の関係があるのであろう。(中略)

…美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。<

 ここで谷崎が日本座敷の美として着目しているのが、陰翳そのものというよりは、その陰りに反射された「濃淡」にあることです。
「われ/\の座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない」というのもそのためですが、あの日本間の代表格として知られる「床の間」についても、「掛け軸を飾り花を活けるが、しかしそれらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも、陰翳に深みを添える方が主になっている」と、「陰翳」を強調するアイテムになっている点についても、従来の「わび・さび」を基調とした日本文化論にはない、作家ならではの独自の視点となっております。

 何よりも谷崎個人が関東大震災を体験し、すでにこの文章で称揚された純和風の生活からはほど遠い、洋風の生活を満喫しているということです。
つまりこれは飽くまで、すでに文明開化以前の日本の伝統からかけ離れた近代文学者が、あたかも西洋人が描いた日本文化論のように、「異郷」のような形で日本の古い文化を改めて再発見したエッセイと言った方が正確かもしれません。

 その他この文章では、伝統建築のみならず、暗い部屋での黒い食器に盛られたご飯の際だった白さや、羊羹の神秘的な黒さにも着目しています。
 ともあれ、本来「暮らし」という言葉は「暗し」という形容詞から来ているといわれております。「陰翳礼讃」によって、日本家屋の暗闇の中から日本人の美意識を再発見した谷崎の視点は、今や夜になっても尚明るい照明に囲まれ、昼夜問わず活動し続ける現代人にとって、嘗ての日本人が暮らしていた暗闇の空間を再認識させたという点においても、決して色褪せてはいない作品だと思います。
 東日本大震災後に、繰り返された計画停電によって、明かりのない世界を味わうことで、普段は見えて来なかった新しい世界を再発見できた日本人も少なくないのではと思われます。

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