とある歪な人間の自伝 その10
12 勘付かれたから
それは高校卒業を控えた半年前のこと。
わたしは次のステップに向けて既に手はずを整えていた。
目標金額に到達し、免許も手に入れた。だから気が緩んだのだろう。
学校の勧めで大卒資格もとれる専門学校の紹介を受ける。そして奨学金制度で満額借りる段取りもリアルタイムで知られることが出来ないように上手いこと用意できた。
まさに順風満帆。だからこそ、わたしは足元が見えなくなってしまう。
浮かれたわたしを待っていたのは深夜に仁王立ちする父親だった。
わたしのバッグを奪い取ると、中に入っていた通帳を抜き取った。それをパラパラめくるとたちまち顔を真っ赤にして怒声を上げる。
「てめぇふざけやがって! 金をちょろまかして貯めやがって! 誰の金で生かしてもらったと思ってるんだ!」
つぎに待っていたのは鉄拳制裁。がきんと頭の中に響く鈍い音で、これは本気で殴りに来ていることが分かった。
フルスイングのテレホンパンチをもろに顔面で受け止めたのだ。そのまま仰け反って玄関ドアに衝突した。
『これはオレが貯めた金だ! ちゃんと金だって家に入れてる! 文句はないだろう!!』
こんな風にちゃんと喋れたか解らないが、
「この家に住んでる限り、お前の金は家の金なんだよ!! てめぇの自由になるわけねえだろ!!」
父親の言い分はこれで終始統一されていて、気持ち良いぐらい徹底的に殴られた。まったく理不尽な話である。
しかし実際の話、こうなることはあらかじめ判ってたのだ。だから通帳は複数に隠していたし、そもそもこの通帳は隠しているモノとは別に基本的には自分が持つようにしていたモノだ。
なのに、なぜ? どうして持ち歩いていたことがバレる? こんな状況でも疑問は尽きない。
父親は複数の格闘技有段者で、国家公務員。わたしは図体がでかいだけの筋金入りのやられ役だ。
老いてもその実力は明らかで、的確にマウントをとられてわたしはいいようにやられる。勿論血は沸騰するぐらいに滾っている。あまりの理不尽に怒りは止まらない。
だけどわたしは筋金入りの被害者でもあるから、この状況を冷静に受け入れていたのだろう。よくよく周りは見えていたと思う。
だから…、
妹がわたしのこの状況を見て笑っていた姿を、わたしは生涯忘れることはないだろう。
そういうことか。なんて、唐突な、そして十全な理解にどっぷりと黒いものがあふれ出たのは、誰であっても想像に難しくないだろうと思う。
さて通帳の一つが奪われて、印鑑が奪われた。
しかしこれは、確かに許せないことだったがそれでも想定の範囲内なのだ。
いっただろう? わたしの人生は3個目を狙って5個目にたどり着くようになっている。
この程度のことは勘定の内。一つそれなりの額を奪わせれば、それ以上を探られることはない。
父親はそれを裏付けるように「ちょろまかす」といった。月にどの程度稼いでいるかは把握できていないのは間違いないと確信した。
だから一つは奪われてもいいようにわたしは口座を20万単位で複数に分けていたのだ。
もちろん、奪われたのはこのうちの新しい口座だ。いつも持ち歩くバッグの中に仕込んでいるもので10万と少しだけ入っている。
もっとも、他のものが最初に見つかると思っていたが、まさか自分のバッグに仕込んでいたものが見つかるとは思わなかったが。
理屈を述べているが感情はあまり冷静ではなかった。
こうなると2個目、3個目が見つかるリスクがあるとわたしは強く焦ったからだ。それが奪われたら計画が大幅に狂ってしまう。それは何として防がなければならない。
だからわたしは数日後の深夜に家を出た。アルバイトに向うフリをして、6駅先の同じバイト先の知り合いの家に転がり込んだ。
ここまでくればわたしを探し出すことは不可能だとそう考えたのだ。
それに父親は体裁を強く気にする。だから社会的にデメリットになる行動は選ぼうとしない。
まあ、強かなのでその行動にメリットがあるなら率先してそれを選ぶだろうが…。
ともかく、だ。
隠れ蓑に使わせてもらった知り合いの家はボロアパートだ。家賃は3万とちょっと(これは後で聞いた)。
5万渡して「これでちょっと住ませて」って言ったときは、すっごい迷惑そうにされた顔は今でも覚えてる。あれはなかなかに傑作だった。
わたしが『訳アリ』なのはすぐに理解できたらしい。
そもそもわたしのことはバイト仲間の間でも割と有名で、いつもわたし自身が『ヤバそう』だと話のタネになっていたと後で知る。
あまり接点のなかった関係だったが、わたしは最低限誰が、何処に住んでいるかを把握しているし、拠点の立地条件が自分にとって都合がよかったことを話したら爆笑されながら思いっきり殴られた。いま思えばあまりにも気持ちの悪い話だが、彼女はだいぶ大人だったんだ。
そういう時は心にもない言葉でも歯の浮くような話を持ちかけた方が物事スムーズだと、散々怒られた。
特段女性という生き物に対して、(いやここでは他人といった方が正しいか)わたしはまったく興味を持たなかったから、彼女の話はとても新鮮だった。
彼女のしぐさ、彼女の好きなタバコ、彼女の好きな酒、好みの味。そして、死生観。彼女を通して知る他人という存在。それは恋愛とは程遠く、恋慕と呼ぶには味気なく、異性の関係とも言い難い。だから友達とも呼べなくて、お互いの足りない何かを埋めていくだけの、本来はあり得ない何かを知るだけの行為が続く。
わたしは芽生えた好奇心を埋めて、彼女は空虚さを埋める。ただそれだけの、都合の良い関係。
そんな一回り以上も年上の女性。彼女の気まぐれが起こした半年間の、非現実。まさにお互いの現実逃避だ。
だから別に、蜜月と呼ぶようなものではない。わたしが特殊なように彼女も特殊だった、それだけの話なんだ。
彼女との話はひとまず置いておく。逃走の話に戻そう。
当初の予定では高校卒業までは実家で、そのあと家出をしよう。決行しよう。と、思ったがわたしはまだまだ未熟なのだ。とてもじゃないが感情が抑えられなかった。
居ても立っても居られない。それほどまでにやはり悔しかったのだろう。いくら頭で理解しても、いくらその為の策を考えても、奪われることに対してわたしは耐えられない。
心情としては家に火をつけてもいいとさえ思ったが、そこまで馬鹿になれないのがわたしだ。
感情に任せて一線を越えてしまえれば、それはどんなに楽なんだろうか。
人は稀に魔が差すといったこともあるらしいが、元より打算で動くわたしには無縁の感情なんだろう。
人を信頼できない。目に見える形がなければ、わたしは人に寄り添えない。
これも両親の教育の賜物。ありがたくって涙が出そうだ。
妹という存在も、両親という存在もわたしにとってはうんざりする存在なんだ。
それを「もう考えなくていい」となった今、わたしはとても開放的な気分となったのは言わなくてもわかってもらえるのではないだろうかと思う。
だってそうだろう? わたしというリソースの大部分を占めていた問題がなくなったのだ。長年の悩み事が消えたいま、少しぐらい浮かれたって罰は当たらないだろう?
だからこの時だけは生まれ変わった気持ちを満喫していたかったんだ。
もちろん取り巻く問題が完全に消えたわけではないのは理解している。
ここら辺がとてもそんな性格の表れているところだと辟易するのだが、憑き物が取れたみたいに変わる…といった変化はわたしには訪れなかった。
劇的な変化というものは、やはり自分自身が変わろうと思っているだけでは足りないのだろう。
確かに意識というものはとても重要な因子だと思う。だけど状況も、幸運も、目先のお金もとにかく必要なのだ。残念なのはわたしにそれがなかったことだろう。
もちろん、まったくないとは言わない。それは彼女に失礼だ。
だが勘違いというものは誰にだってある。わたしの最大の勘違いは、その成功体験から一切学ばず、引き続き他人を引き寄せるという努力をしなかったということだ。
何でも自分でやろうとして、出来ない問題が立ちふさがる度に地団太を踏むのだ。
また奪われるかもしれないと、他人の力を借りるというのはわたしにとってとても高いハードルだった訳だ。
さて、それから卒業まで学校経由で母親からコンタクトを求められることはあったが、わたしはこれに応じなかった。
めんどくさかった。これが正直な気持ちだ。とてつもなくめんどくさかったのだ。
それにまた元に戻ると考えたら、なにも出来なくなってしまいそうだし、何より元に戻れば費やした努力も、時間も、お金も元には戻らない。
そうなってしまうと考えたら、これはとても恐ろしい状況となる。すべてが無駄になるのだ。
これを意固地というとかわいらしく聞こえるかもしれないが、わたしはまた奪われてしまう事実の方がよっぽども我慢できない。
ならば意固地になるだろう。誰だってそうなるはずだと思う。
しかしこのやり取りも2ケ月目あたりには無くなり平穏を迎えた。
そして卒業を迎える少し前、事件は起こった。