ホームスクーリングをするための戦略を考えよう! その4
04 最初の協力者は両親、そして寄り添う目的とその在り方
周囲に振り回されないように私たちは子供を守るあらゆることを考えなければならない。前段でも述べた通り『子供は責任能力がない』という建前があるので本人の意に反して、周りが本人の境遇を勝手に決めつけて、勝手に押し込むことがあります。
そうすることが客観的な視点において、大人たちにとっては安心で、考えなくていい問題だからです。
大人たちは考えている振りをしますが、それは十全に子供のことを考えている話でしょうか? どこかに大人たちの体裁や常識、そういった大人の都合で物事を決めていませんか?
その発言は、その目線はどこからのものか?
私もたまにわからなくなります。気が付けば自分の都合を子供に押し付けている、そんな言葉を強く発することがあるんです。
しかし、子供に語るのは未来の話。未来とは不確定なものです。
子供の気持ちは未来にはどうなっているか、もしかしたら子供の性格を勝手に決め込んで未来を閉ざしていないだろうか? その考えを忘れてはいけないと思うんです。
大人たちは(私自身も)ついつい忘れがちですが、
そもそも大人の体感時間と子供の体感時間は同一のものではありません。
子供の体感時間の方が圧倒的に長く、心理学的には大人の6倍した時間が子供の体感時間とされているそうです。これの詳しい話は『ジャネーの法則』を調べてみてください。ここでは割愛します。
さて、大人の10分が子供の1時間。
もちろん実際の時間は10分しか経っていない。でも楽しいことはあっという間に過ぎてしまうのに、退屈な時間は1分だって長く感じる。こんな経験は誰しも知っていることと思います。
それと同じことで、子供にとって10分を待つということは、大人で言うところの「1時間待ってて」と同じだと理解しておくといいかもしれません。
もしあなたが、誰かに「1時間待ってて」と言われたらどうしますか?
私なら「その辺の喫茶店で暇つぶしてる」と言うでしょう。
でも子供はそんなにパパっと切り替えられない子が多いですよね。それにふらふらっとどこか行かれても親としてはとても困ります。そして子供に対して「ちょっと待ってて」って言うときはだいたい手が離せないとき。大人も少し慌てているとき。
頭ではわかっていても、ついつい子供の目線に立てないのは私も大人になったつもりの子供だからかもしれません。
だけど一度冷静になって、こう思うんです。
それだけ体感時間が違うのだから、子供たちのインプットにおける情報量というものは本当に多いのではないか? 私たちがそれなりの歳月を経て大人と呼ばれる年齢になっても『知っている話』と『わからない話』で感じ方が大きく違う。この間に『知っているような気がする話』があって、それが正しいのかどうか調べるのが面倒に感じる。
だからそもそも『知らない話』『わからない話』を聞くのも、口にするのもひどく面倒に感じてしまう。
面倒なことを真っ向から受け止めるのはとてもストレスが掛かる。
大人がそうなのだから、子供だって同じ。いいや、あるいはもっとそうなのかもしれない。子供だからストレスが掛からないなんてそんなことはあり得ないし、純粋な感情に直接伝わるストレスの衝撃ってものは存外深刻なのかもしれない。
ただ。
振り返ると私たちはストレスが掛かることを自分で工夫して、頭と体を使ってきてなんとか軽減したり、昇華したりさせてきたんじゃないかなと思うんです。そういうと、大層に聞こえるかもしれないけども、こう言いかえることが出来ます。
ストレスは人間的な成長も含んでいるよね? って。
例えば、誰かと喧嘩をしたとする。その後に仲直りをするためには、和解をしなければならない。でも、この和解は個人において負担だし、とてもストレスが掛かりますよね? 子供ならなおさらのこと。では、そのストレスから身を守るために和解は必要ないか? となると、そうはならない。
コミュニティにおける自身の立場や立ち位置を確立するためにも、それを学び、考えなくちゃならない。なにせ、これは大人でも子供でも関係がなく、まさに一生涯続く話。
あくまで一例です。結局、伝えたいことはこういうことです。
何かの局面(問題、事件、イベント)があったとき、
・そこを大人が線引きをするのか?
・そこを子供の自主性に任せなければならないのか?
ということ。
私は正直に言えば判断がつかないことの方が多いです。
そもそも最適解を出すことの方が困難だとさえ思っています。
だからこそ、子供の目線にしっかりと大人が目線を合わせなければならないと思っています。これは、提案というよりも私自身への戒めなんです。
これは余談なので聞き流してもらっても構いません。私の根幹の考え方です。
大人でさえ未来の話をするのは『鬼が笑う』と言います。
それでもわからないことが怖いから、あれこれと経験則や予測をしたがります。少なくとも私は想定外を回避するためにあがく方。そんな大人が子供に対して未来の話をするのは何とも滑稽だなって思ったりもします。自虐の意味も含めて、ですが。
大人が良かれと思って行った行動が、子供の未来を閉ざしてしまうのはとても怖いのです。
他人は簡単に「逃げてもいい」と言います。困ったら「誰か助けてくれる」と言います。
本当にそうかは別として、その言葉はまったく重みがないものです。それでも慰めの意味も含めてそんな言葉を口にします。
ええ、これは冗談みたいなものだと認識しています。なぜか?
それで確かに良い方に物事が傾いた人も確かにいるのでしょうね。その人には助けてくれる人がいたのかもしれません。でもそれは「その人」のお話。
よくわからない「他人」のお話。私たちの話ではないんです。
私の子供は未来を想像できません。もちろん子供らしい「○○になりたい」はありますよ? でもそういうことではなく、未来をどう進んでいくか。彼にはその自力も知識も足りません。
だから、未来の話をしても響かないのは当然のことでしょう。
そんな不確かな未来よりもいま泣いているから、限界だから不登校になった。
そういった選択したし、私はそれを認めた。
それを逃げたというのか、それとも新しいステージで戦うことを選択したのか。
そんなことは未来が勝手に決めることだとは思いますが、そのときに私は他人の言葉に踊らされたと思いたくはないし、その他人に責任追及できない。そう考えています。
耳障りの良い言葉を他人は言いたくなります。
気持ちを前向きにして頑張ればいい方向に向く。とにかく今がつらいなら、つらいことから逃げてもいい。その言葉の真意は、ふさぎ込んでいるより建設的な意見を出しましょうって話になると思いますが、子供はそこまで考えるでしょうか?
きっと、文字通り受け取るでしょう?
つらいことがあればその都度逃げなさい。ってね。
逃げて逃げて逃げ切って、勝てるだけの自力も財産もあればいいですが、私の家庭のようにそれがないのであればどこかで腰を据えなければならない。どこかで根を生やさなければならない。これを視野が狭いと笑われてもいいけども、それが現実であり、事実。
子供の為に何でもしたい。でも、その家庭それぞれに限界はあります。
故に責任の持てない話でもある。
味方という言葉を建前にして成長の機会を奪うのは、子供の自立する機会を奪うということ。それはホームスクーリングの趣旨とも離れてしまいます。
ホームスクーリングは『過程主義』の考え方に沿った代案教育。
児童の年齢で判断するのではなく、学力やカリキュラムの履修状況をもとに、児童の自力を示して判断するという考え方なので、そもそも自力が育たない環境を作ってしまうのは本意じゃない。
ならば子供の味方であるためにどういったことが考えられるか。
・大人の責務は子供の性格、状況、そして環境を把握する。
・環境整備して、その上でそっと子供に助言する。
・必要であれば、子供の背中を押してあげる。
それが子供の味方の在り方だと、自戒の念をもって声にしておきたい。だから前提が崩れる第三者には全く務まらないと考えるのが道理です。なぜならこれは数あるオルタナティブ形式の中であえてホームスクールを選択した大人の責務にもつながると考えているからです。
もちろん毎日24時間がそんな状態であれば大人も子供も疲れてしまうから、メリハリはとても重要だと思う。オンとオフをしっかり使い分けて親子の時間も大事にするのが理想、なのでしょう。
そうした家庭環境の土台をしっかり構築したうえで、他の大人たちにも理解してもらう。この考え方を前提とした枠組みがとても重要なんだと私は考えます。
ではその上での次は「協力者の話」をしましょう。