羽島巡検その後
2021年3月某日
羽島巡検から約一月後。その日は稲沢に行く予定でしたが急遽予定変更し羽島へ
一宮から自転車で約11km。またふざけた距離だが尾西までは行ったことがあったので慣れっこ
ダラダラと自転車を漕ぎながら木曽川へ
この橋(写真に橋は写っていない)を渡るのは二度目だが、恐ろしく長く感じる。実際長いのだが。
そんなこんなで気付けば竹ヶ鼻城水攻め(個人的に第一次竹ヶ鼻城の戦いと呼んでいる)の堤跡の道へ。一回も地図は開かなかったが何となくでそのまま竹鼻駅へ
今日回るのは羽島巡検で回ることができなかった史跡。
工事中の駅を後にまずは重勝の五輪塔の跡地へ
当然特に何も無い…
この五輪塔は現在行方不明で、阿弥陀寺に移された後寺が廃寺となり行方知らずだったはず
そしていわゆる竹ヶ鼻城跡へ
ここもやはり何も無いが、以前はここに石碑が建っていた。竹ヶ鼻は場所が不明で、ここもその一説に過ぎないのだが、観光の観点で行くと怪しくてもその旨を付した上で独立した史跡が欲しいところだ。今その石碑は歴史民俗資料館の前に立っているが、これでは歴史民俗資料館だけで完結してしまう。分離してこそ散策ができるのだが。
ここで脱線して竹ヶ鼻城の諸説紹介
7つの説があるので軽く紹介する
・上城、下城両町から西方
・本丸跡石碑一帯
・本町筋西、下城町から北
・丸の内3〜4
・竹鼻別院の西側
・亥新田
・丸の内全域
この際諸説ある城主も紹介しておく
ちょっと長くなったのでここらへんは好きな人以外次の写真が出てくるまで飛ばして読んで下さい。
初代竹腰伊豆守尚隆
2代長井豊後守利隆
3代長井隼人佐(正)道利
4代不破権内綱村
5代不破源六広綱
6代一柳伊豆守直末
7代伊木清兵衛忠次
8代森寺清右衛門
9代杉浦五左衛門重勝
と言われている。しかし尚隆が築城したことは確たる根拠はなく、また長井隼人佐道利は城主であったことの確実な根拠はない。なおその他にも太田理左衛門入道祐専や斎藤伊豆守、花村修理、花村作左衛門、丸毛兵庫守、同三郎兵衛なども城主であったとする記録がある。
実は長井〜不破の時期は記録の空白時期であり、この時期に織田がこの地域を攻めた際竹ヶ鼻の城主知らずとあるように目立った城主がいないことがわかる。
順番に見ていこう
太田は太田家の家譜にしか記録がないので怪しいといえば怪しいが全く嘘で書くには具体的過ぎるようにも思うので事実であったような気がする。時期は明確に記されていて、信長が美濃を攻め取ったとき、不破よりは前で長井の後といった時期だろうか。もう一つ気になるのは系図に代々竹ヶ鼻城主とあることだ。代々が現代語と同じ意味なら、太田元久(上記の人物)が竹ヶ鼻を去ったため最低一人はその上の代も城主であったと読み取れる。後考を待つ。
【追記】2021.3.26
この太田家については岡崎巡検ページにて多少詳しく書いた。そちらも参照されたい。
→岡崎巡検
次に斎藤伊豆守、そもそも誰なのかわからない。ただ斎藤伊豆守利綱と言う人物がいる。よく見るとこの人物2代長井利隆の兄弟である。それを考えると十分可能性はあり、利隆の後、道利の前や道利の後、そもそも道利が城主でなければその立ち位置にも入る。
次は花村修理と作左衛門。同じ人物の可能性もあるが、土岐斎藤軍記の作者(というか編者に近い?)として花村外記利房、修理利昌や半左衛門利之等の名前が上がっている。利房と利昌は親子であることは斎藤氏の系図で確認できる。利房は斎藤利良の兄弟であり立派な斎藤家の一族である。半左衛門利之は関ヶ原の折杉浦重勝とともに竹ヶ鼻に籠城している。このことから利之に限らず花村家が城主であった可能性は十分にあるだろう。空城に勝手に入っていた可能性とあるし、在地領主として代官的に入っていたのかもしれない。時期は美濃城主誌略には不破以前とあるのでするとやはり空白時期のどこかだろう。ただ年代的に杉浦重勝が入る前に一時的に入っていた可能性もあるのではないかと思う。作左衛門とは半左衛門のことでいいのだろうか。岐阜県資料館に花村家の資料があるが早く見たい。
最後は丸毛氏である。兵庫頭・三郎兵衛は長照、兼利であると考えられる。兵庫頭は丸毛氏の代々の名乗りだが、時期的に問題無いだろう。この一族もやはり在地領主であり花村氏とおなじような感じだったのだろう。
どんどん脱線していくが、実際僕は普段からこんなこと考えながら歩いている。
それはさておき次は保育園
ここ(というかこの辺り)はお堀の松と言って竹ヶ鼻城の堀跡伝承がある。実のところはやはり不明だが、付近の工事で石垣が出たり、数メートル掘らないと硬い地盤が出てこなかったりと城跡を思わせる痕跡も出ている。それらしき地形の話はまた後日気が向けば。
そして羽島市歴史民俗資料館。ここは当然以前来てレコードを流してもらったりとお世話になった。まだまだ用事があるのでスルーして、
すぐ隣の水路へ
別に水路マニアなわけではなく、竹ヶ鼻城の堀跡と言われている。まぁなんとも。
次はお城地蔵
詳しい説明は写真を見てもらえればそのまま。特に遺物と言うわけではない。
そして意味は無いけれど駅に寄り道
気がつくと向かいに看板が。
あれ、身代わり地蔵なんてあったのか、、見落としていたのでそのまま向かう。いまいちよくわからなかったが、スルー
せっかくなので岐阜羽島まで行ってみる。円空の資料館らしきものがあるみたいなのだが、、口コミがボロクソなのでまあいいや
そのまま堤跡に戻り赤竹神社の跡地へ
竹ヶ鼻の由来は赤竹の先の意味で竹鼻和郷が変化した地名。鎌倉時代からある地名
当然羽島巡検でも行ったのだが場所を把握しておらず発見できず。
二枚目の写真ですら道から一本入って曲がったところなのでかなり分かりづらい。今は八剣神社の方がお世話しているらしい
そして堤跡の石碑へ
石碑は4つあるのだが、ついここだけ見逃してしまったので再訪。
このあと羽島市図書館へ行き閉架(郷土第2室)の本を出して貰おうとしたら全く見つからず30分以上探していただいた。申し訳無い反面誰もその本見ようとしなかったのかと残念。
大量に複写して予定より大幅に遅れたが撤収
来た道を引き返し川を渡り一宮へ戻る
途中大明神社へ
福島正則の駒繋ぎ松
ここは以前尾西に来たときも行ったのだが、その時は偶然神社を見つけたから行っただけでこの史跡を知らなかったため見つけられず。おいなんで見逃したのかと後で悔いましたが、理由が判明。衝撃的なほど見つけづらい。写真ではわからないが稲荷神社の大量に並んでる鳥居の途中で突然横にこれがある。鳥居をまともにくぐってたら気づかない気がする(この日は横から行ったら見つけた)。単純に疲れてただけかもしれないが。
全然説明して無かったが、ここは関ヶ原の前哨戦で竹ヶ鼻の杉浦重勝が福島正則らいわゆる東軍に攻められた(前に同じく僕は第二次竹ヶ鼻城の戦いと呼んでいる)際に福島が竹ヶ鼻を攻めようと木曽川をの対岸に布陣した際の場所。重勝が渡河を防ごうとしごちゃごちゃしたがそのへんは省略する。
この日はこのくらいで終了
竹ヶ鼻って面白い、改めてそう感じた
R2年度会長TN
【追記】
これを書いた翌日、急遽羽島へまた行ける事になった。
わざわざ写真は載せないが、2回とも行き忘れた光照寺へ行き、図書館で郷土資料室を漁り、歴史民俗資料館へ伺った。
図書館では特別面白いものは無かったが、『太閤山と竹ヶ鼻城の水攻め』を読んで多少参考になった。
その日の帰宅後信雄分限帳を何気なく眺めていると、杉浦重勝はもちろん前半にあるが、そのかなり後の方に杉浦猪助の名前が見つかった。内容は書かないが、これまで猪助と重勝は同じ人物と思っていたが、別人であることがほぼ確定した。職種が同じこと、祖父江秀重と蔵入地代官をしているあたり重勝の同族であることはおよそ確実だろう。また猪助は西御堂を領していたが、後に重勝も所領変えで西御堂を与えられている。この辺りもその補強になるだろう。ところで信雄の政治が気になってきたが、きりがないので後考を待つ。