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終戦記念日が傷痍軍人の追っかけをした幼い少年の頃の思い出を蘇らせるという話。

突然だけど、あなたは傷痍軍人(しょういぐんじん)という単語を目にしたり聞いたりしたことがありますか?

若い人はほとんど知らない単語になっちゃったかも知れませんが、昭和生まれの人のうち、昭和20年代~30年代生まれの人だったら単語だけでなく、傷痍軍人のご本人に会ったことがある、という人もおられると思いますね。

傷痍軍人とは、戦争で傷を受けて復員してきた軍人さんのことですが、私の幼い頃には身近にも傷痍軍人となった方が住んでおられました。

その方たちは片腕を無くしたり、歩行に難儀するほどの障害を抱えたりしながらも、できる仕事を選んでみんなと同じように働いておられました。

だから子供心にも傷痍軍人という響きには、お国の為に戦って名誉の負傷を負った元軍人さんという、どこか誇り高いイメージを持っていたんですね。

そういう時代、太平洋戦争が終わってからまだ15年ほどしか経っていない頃の思い出が、終戦記念日とともに蘇るのです。

何かオチがあるとか、大事件が起こるとか、そんな思い出ではないのですが、終戦記念日の声を聞くと必ず思い出す傷痍軍人にまつわる話です。

今日は、その思い出を書きたいと思います。


ある日、国道3号線が舗装されて間もない頃のある日の午後、昭和30年代のある日に、友達が家に駆け込んできたんですよ。

「おい、しょーいぐんじんが、来よっど!」
「ほんとけ?どこよ?」
「こいから行っけど、お前も来っか?」
おし!

そう言って先行していた数人の友達を、二人で追っかけたのです。
息を切らして追いつくと、立ち止まった友達の群れに加わり前方を見たんですね。

やや上り勾配の国道の先に橋が見えているんだけど、橋の先は勾配のせいで見えないんですよ、その橋の向こうは左曲がりの直角のカーブになっているので遠方まで見渡せないわけですね。

「どこよ?」
「まだ来んね・・・。」
「もちっと、先まで行ってみろかい?」
「うん、そげんすっが!」※うん、そうしよう!

子どもたちの群れは、小走りに橋まで辿り着きました。
前方の国道は左にほぼ直角にカーブしているけど、そのカーブのところまで進む勇気は、どの子にもなかったんですね。

しばらくすると、ジャッ、ジャッ、ジャッ、というわずかな音に、ゴロゴロという音が混じり合って聞こえて来たかと思うと、カーブの先から黄ばんだ白い服の塊が姿を現しました。

うわっ!・・・何よ・・・?」
あしが・・・無かよ・・・?」
「・・・・・・!」

その姿は子どもたちには、あまりにも強烈だったんですね。
ほぼ太ももの部分を根元だけ残して、そこから下の部分が無い。
これが本物の傷痍軍人なのだ、その姿は子どもたちの目に焼き付きました。

手には身の丈より短い棒を持ち、ミカン箱より少し大きいくらいの箱車を引きながら、無表情でジャッ、ジャッ、ジャッ、と近づいてくるわけです。

呆然と立ち尽くす子どもたちの前を、左右に身体を揺すりながら時間をかけて通り過ぎていく傷痍軍人の姿は、まるで機械仕掛けの人形みたいな動きだった。

橋のたもとにいた子どもたちの前を過ぎると、傷痍軍人は器用に覆い被さるようにして箱車に乗り込むと、道路の勾配を利用して箱車を棒で押し出して転がし始めました。

空の時にはゴロゴロだった音がガリガリに変わり、傷痍軍人が歩くときよりスピードを増して勾配のある国道を下っていく。

その後を子どもたちは追いかけるように、無言のままで歩き出しました。
勾配がなくなり平坦な道路になると、箱車から身を乗り出すようにして道路に降り立つと、またジャッ、ジャッ、ジャッ、と箱車を引いて歩き出す。

極端に短い足元をよく見ると、タイヤを切り重ねた分厚いゴムを、靴代わりにして貼り付けてあるんですよ。

そのゴムとアスファルトの小さな砂利が立てる音が、ジャッ、ジャッ、ジャッ、という規則正しい音になって聞こえるわけですね。

子どもたちは命令でもされたかのように、傷痍軍人と箱車の後を塊になって黙ってついて行くのです。

やがて、道路の両脇に人家が建ち並ぶ町の中心部に行き着くと、子どもたちは結界から逃れ出るかのように合図しあって、いつもの遊び場所に散っていってしまいました。

一人だけ残った子どもが幼い頃の私で、そのまま傷痍軍人の後を追いかけて一緒に歩き続けたんですよ。

胴体からわずかばかり突き出ただけの両脚に、タイヤのゴムを貼り付けて少しばかりの荷物を箱車に積み込んだ傷痍軍人の行き先は、いったいどこだったのだろうか?

汽車やバスを使わずに歩き続ける傷痍軍人の行き先は、見当も付かない。

両脚が切断されたままタイヤのゴムを履物代わりにして、下り坂は箱車に乗り平坦地や上り坂は箱車を引いてジャッ、ジャッ、ジャッ、と傷痍軍人は何かに引き寄せられるように、ただ無表情で進み続けるだけなのですね。

ボロボロの白装束が黄色く汗ばんでいて、腰回りには水筒や小物入れなどがぶら下がった幅広の布製ベルトを巻き、頭には後頭部に日よけの付いた軍帽のような薄汚れた帽子を被っていました。

手には短い棒を持ち、いつもこの棒で悪さを仕掛けてくる悪童たちを追い払い、下り坂では箱車の舵取り棒と推進力を付ける便利な押し棒として使っていたんでしょう。

子どもがゆっくり歩いても、すぐに追い越してしまうくらいの遅い歩みで、ちょこちょこと機械仕掛けの人形のように、左右に身体を揺らしながら歩いている姿は子どもの興味を引いたけど、誰も声をかけられないでいたんです。

町はずれに来ると、川沿いの土手にいた小学高学年の子どもたちがバラバラと走り寄ってきました。

まじまじと傷痍軍人を見ながら、少しずつ囲みを狭めていくと、そのうちの一人が傷痍軍人が引いている箱車を引き留めようと、手で箱車を掴んで進行の邪魔をし始めたんですよ。

傷痍軍人は、後ろに引き倒されそうになり、バランスを崩しながらも手に持った棒で、悪さをする子どもたちを追い払うわけですね。

悪童たちのこういった悪さには慣れているのか、追い払うときには声を出さずに、大声を上げているかのように大きく口を開けて、息だけを吐き出す仕草だったんですが、あとになって考えると喋れなかったのかもしれません。

傷痍軍人は、何度か近づいては悪さを仕掛けてくる子ども相手に、こわい形相で睨み付けながら手にした棒を構えたまま、動かなくなった。

悪童たちも飽きたのか、しばらく睨み合いをしたあと、また川沿いの土手に帰っていったんです。

一人残っている私を睨んで動かない傷痍軍人に「ボクはちがう」と言うことさえできなかったんですね。


しばらくして歩き始めた傷痍軍人を見送りながら、私は突然思いついたことがありました。

大急ぎで長い距離を走って家に帰ると、羽釜の中に残っていた冷やご飯で握り飯を大急ぎでこしらえて、紙で包んで手ぬぐいに巻き込み、手にぶら下げて傷痍軍人の後を追いかけたのです。

町はずれから相当来たところで追いついたものの、声もかけられずに様子をうかがいながらしばらく付いていくことにしました。

何度か追いついて声をかけようとするのですが、きっかけがつかめず、なんと声かけしたらいいのかも分からずに、黙ってついて行くしか無かったんですよ。

そうやって相当な距離を歩いた頃に、傷痍軍人が道ばたの石に腰を下ろして一休みする様子がうかがえたんですね。

そこで恐る恐る近づくと、傷痍軍人は私に顔を向けたとたん、手で追っ払う仕草をするんですよ。

どうしたものかと思い悩んで、手にした手ぬぐいの包みを、傷痍軍人に突き出してみたんです。

それを見ていた傷痍軍人は、黙って私を見つめてくるだけで動こうとも話しかけようともしないのですね。

私は仕方なくもう少し近づいて、そぉっとお握りの入った手ぬぐいの包みをもう一度差し出してみたんですよ。

その包みと私の顔を黙って交互に見ていた傷痍軍人の顔に、少しずつ笑みが浮かんだかと思ったら、もっとこっちへ来いと手招きするではないですか。

おずおずと近づいた私は、へっぴり腰で包みを差し出すと、傷痍軍人は笑顔で包みを受け取ってくれたんです。

その場で包みを開いて中のお握りを一つつかむと、頭の上に乗っけるようにして拝んだ後に、自分の荷物の中から弁当箱のような大きさの缶を取り出すと、そこへ移し始めました。

残ったお握りも全部移し終わると、包んでいた紙に付いていたご飯粒をつまみ食いしてから、手ぬぐいと一緒にたたんで返してくれたんですね。

その間、お互いにひと言も言葉を交わすことなく、傷痍軍人は私を拝んでから休憩を終えると、無言のまま、ちょこちょこと機械仕掛けのような歩みで歩き始めました。

私はしばらくその場に立ち尽くして見送ったんですが、傷痍軍人は一度も振り返りませんでした。

もしかしたら一度くらい振り返ってくれるかも、という期待を持って立ち尽くしていたんだけど、国道のずっと先のカーブで、とうとう視界からも消えてしまいました。

傷痍軍人が振り返ってくれたなら、大きく手を振って見送ろう、そう考えていた幼い私は、何か裏切られたような淋しさと、切なくなるような思いで胸を痛めたんですよね。


あとに残された私の帰り道は、思っていたより遠かったですね。

こんなに遠くまで来てしまったんだと心細くなる気持ちを抑えながら、ひとりぼっちの帰路を泣きそうな気持ちで、ただひたすら歩いて帰ったのです。

帰りに傷痍軍人の歩き方を真似て、ちょこちょこ機械仕掛けのような歩みも試してみたけど、全然進まないのに愕然としました。

こんなスピードでいつも歩いている傷痍軍人は、どこから来てどこへ行くつもりなんだろう?

なんで汽車やバスを使わないんだろう?

幼い私が出した答えは、歩くことが目的なんだ、ということでした。
行き着く先はどこでもいいのだ、きっと。

そこへ向かって一歩ずつ、残った脚の動く限り歩き続けることが
傷痍軍人の目的なんだと、信じることにしました。

傷痍軍人が歩くことに比べたら、まともに二本の足を使って歩けるなんて、なんという有り難いことなんだと、子供心にもしみじみ思ったんですよ。

だから決して、粗末に歩いてはいけない。
大事に歩かなければならない。

歩けるということに感謝しながら、たとえ無様な歩きと思われようが
歩くことに、歩けることに、大きな意味があるのだと、傷痍軍人との出来事とともに胸に刻んだ、少年の頃の夏の思い出なんですよ。


日も暮れる頃になって、やっと自宅に帰り着いた私を待っていた父親の顔が怒っていたんですね。

羽釜のご飯がなぜ無くなっているのか、そう怒った顔で問い詰める父親に傷痍軍人のことを話したわけです。

お握りを作ってあげてしまったから、羽釜のご飯はもう無いと謝ったんですね。

しばらく黙っていた父親が、隣の伯母さんに冷やご飯は残ってないか、聞きに行けというので、亡くなった母親の姉にあたる隣の伯母さんちに出かけて二人分の炊きたてご飯をもらってきました。

父親が食卓にご飯を並べながら、ボソッとつぶやいたんですよ。
「おまえが傷痍軍人に冷やご飯の握り飯をやったから、褒美で炊きたてご飯が戻ってきたがよ・・・・・・盥の水やったね・・・。」

「タライのミズって、なんね?」

「盥の水は、欲張ってコッチにかき寄せると、手元の脇からアッチさえに流れて行っどが・・・。逆にどうぞどうぞっちゅうて、アッチに押っしゃるとグルリからコッチに流れこんで来っじゃろが・・・。」

「そいは、何のことね?」

欲をかくなっちゅうことよ、欲しがらんでも先にどうぞっちゅうて差し上げれば、回り回って我がところにちゃんと戻ってくるっちゅうことよ、そいが盥の水っちゅうもんよ、覚えとけね」

そう諭す父親の顔を見ると、父親が優しい笑顔で応えてくれたんです。
それから何度も聞かされた「盥の水」の話は、今は私の大事な人生訓になっているんですよね。

終戦記念日の声を聞くたびに毎年必ず思い出す、幼い頃の心に残るエピソードなのですよ。


ってことで 今回は
終戦記念日が傷痍軍人の追っかけをした幼い少年の頃の思い出を蘇らせるという話。
でした。


では!

なつかしく 思い出よぎる のほほんと。



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