コロナ渦不染日記 #9
五月四日(月)
○朝から、厚生労働省が公式ツイッターで発表した「STAY HOMEアマビエ」アニメと、「密ですビート」をマッシュアップした動画を作って遊ぶ。
○以前、菅野ぽんたさんにオススメいただいた、『スーパーマン:フォー・オール・シーズンズ』が届いたので読む。涙なしには読めない大傑作。
スーパーマンは「人の善意の象徴」であり、「『自分を守るためでなく、他人を救うために行動する』という『普通の人にはなかなかできかねること』をするものとしてのヒーロー」の金字塔であると再確認した(ちなみに、バットマンは「『自分じしんを救う』という『普通の人にはなかなかできかねること』に挑戦するものとしてのヒーロー」である)
○夕方から総理大臣の会見を見る。
政府から、緊急事態宣言を五月末まで延長する旨が報告される。感染拡大を抑えるために外出を自粛する方向性と、中小零細企業や消費者そのものの経済的な困難を救済し経済停滞を防ぐ方向性との折り合いをどうつけるかについて、「新型コロナウィルスが存在する前提で送られる『新たな日常』を構築する」という言い方をしていた。五月末までの約一ヶ月間は、そのための猶予期間でもあるという。
やはり、国家などの「集団」は動きが遅いのである。実行という指先に意志決定機関という脳からの指令が届くに時間がかかるし、現場という感覚器官から意志決定機関という脳に情報が集約されるのにも時間がかかる。これは政治家の首をすげかえれば改善されるものなのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、それをタスクとして取りこむことは、現状の緊急事態に際しては、「状況判断」の複雑さを加速させることになるのは間違いない。
○ぼくはことばが好きである。ことばを使っていろいろなことを表現するのが好きなのだ。だから、言葉の使い方、表現の仕方、表現したものがどう受けとられるかを考える。そうしてきて、ひとつ、気づいたことがある。
それは、ことばは、シンプルな方が、表現したものを少ない誤差で受けとってもらえるということだ。
ことばは技術であり、芸能でもあるので、さまざまな表現形式、さまざまな修飾方法が存在する。それらを用いることは、ことばを美しくするし、そうなるようにと試行錯誤することそのものが楽しい。だが、その楽しさに目を奪われ、美しくも曖昧な、自分勝手な表現になってしまうことは、ことばの重要な役割である、「表現内容を誤差少なく受けとってもらうこと」をおろそかにすることになる。
ぼくは言語[ことば]が好きである。言語を使って様々な事を表現するのが好きなのだ。だから、言葉の遣い方、表現の仕方、表現したモノが如何受け取られるかを考える。然うして来て、一つ、気づいた事が有る。
それは、言語はシンプルな方が表現したモノを少ない誤差で受け取って貰えると云う事だ。
言語は技術で在り、芸能でも在るので、様々な表現形式、様々な修飾方法が存在する。其れ等を用いる事は、言語を美しくするし、然うなる様にと試行錯誤する事其のモノが楽しい。だが、其の楽しさに目を奪われ、美しくも曖昧な、自分勝手な表現に成って仕舞う事は、言語の重要な役割で在る、「表現内容を誤差少なく受け取って貰う事」を疎かにする事に成る。
こういう書き方は、だから、読み手を無視したひとりよがりのものとなる可能性が高い。
……以上のようなことを、総理大臣記者会見を見ていて、思ったものである。曖昧な表現で、伝える本人も理解していない内容を、ただ右から左に動かすように伝えるのは、不誠実といわざるをえない。当然、ぼくじしんもその危険性を持つ。
○夜。ししジニーさん、ゆんぺすさんと、オンライン同時再生で『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』を見る。最初のテレビ版、最初の劇場版を経て、着実にブラッシュアップされていると感じる。
五月五日(火)
○ほぼ一日なにもしない日。
○夜、ししジニーさん、ゆんぺすさんと『ヱヴァンゲリオン新劇場版:Q』を見る。
久々に見たが、ものすごくちゃんとSFしているし、『破』に続き、ドラマとしてブラッシュアップされている。
特に、音楽の扱いがいい。『序』と『破』では、「S-DATで聴く音楽は他人と向き合うときの障壁(A.T.フィールド)として機能していた」が、『Q』ではこれを引き継いで、「S-DATが壊れている間にピアノを連弾し、S-DATが修理されると連弾しなくなる(できなくなる)」といったかたちで、「音楽」とドラマを有機的に結びつけている。
その後、野良修さんが参加して、ゲームプレイ動画を鑑賞。オンライン飲み会といい、新しいコミュニケーションのかたちを実践する夜となった。
五月六日(水)
○町へ毛を整えにゆく。なじみの美容室は、ふだんは思いおもいの格好をしているスタッフの方全員が、今日はオリジナルのツナギを来ており、その統一感に驚く。
うさぎのカットに慣れている、なじみのお姉さんスタッフと話しながら、初夏にふさわしい短めカットにしてもらう。全身のカットとなるが、そこは腕利きのスタッフ、バリカンでさっさと短くしてくれる。そのときに話した雑談が、この災禍と、緊急事態宣言下の外出自粛に関するものである以外は、服装をのぞけばいたって普通のカットであった。
○その後、岬へ移動し、イナバさんの買い物につきあう。
薬局に日焼け止めを買いにいくと、薬局の前で若い人間の店員さんが、使いきりマスクのケースを手に、マスクの販売があることをアナウンスしていた。岬の有名な商店街では、営業自粛している店舗のシャッター前に勝手にテーブルを並べて、ヤミマスクの販売が行われていたというが、ついに実店舗に正規販売のマスクが戻ってきたのである。
○この「コロナ渦不染日記」をはじめたとき、ぼくは以下のように書いた。
しかしてぼくのこの『コロナ渦不染日記』はといえば、「四月七日の緊急事態宣言発出」をきっかけとして書き出しているのだから、このまま推移すれば五月六日に終わる予定である。その期間を記録し、「あの時期」の記録を残すのがこの日記の役割であるのだから、これは最初から読み手を意識した日記である。……だが、ほんとうにそうなるだろうか、と思ってしまったのである。この日記はどこまで続くのか。五月六日を過ぎれば、「コロナ渦」は収まるのであろうか。「コロナ禍」はおさまるかもしれない。しかし、その原動力が途絶したとしても、そこから生み出された力が隣接するあらゆるものごとに伝達され引き起こされる「コロナ渦」は、その先へ、どこまでも続いていくのではないだろうか。それほどに、この災禍は巨大な動きとなる力を持っている。
——四月十九日の日記より。
(太字強調は原文になし)
昨日の、五月末までの緊急事態宣言を受けて、あらためて、この「コロナ渦」の大きさを思う。一ヶ月では、「コロナ禍」も収まりきらないのであるから、いわんや「コロナ渦」をや。
国民への特別給付金の給付も、飲食店やイベント業の営業自粛にともなう助成のあり方も、公立学校の授業再開も、いまだ実行されていないのが、緊急事態宣言発出から一ヶ月の現状である。その間に進行したことといえば、そうした公的補助や「新しい生活」にむけた草の根的な準備の他には、いたずらな人心の荒廃と、それに表裏をなす個人のこころの解放ではないか。
○人のこころは、自由にすれば暴走し、暴走をとめようとすれば窮屈になるのである。特に日本人は、阿部謹也氏の名著『「世間」とは何か』によれば、「世間」というシステムに認知や意志決定を代替させて生きながらえた文化があるだけに、自由と窮屈の原因を自己に還元せず、つねに誰か=世間のせいにして、事態の改善をすり抜けてしまう傾向を持つ。自分事として考えることが苦手なのだ。ぼくがこの日記で「染ら不」を貫きたい、「染れ不」になってしまう、といっているのは、そこである。ぼくは「世間」が嫌いなのだ。世間から放逐され、世間に邪魔された記憶こそあれ、世間に救われたと思ったことなど一度もない。山田風太郎『忍法忠臣蔵』を真似すれば、「世間はきらい」である。世間など、「群れ」としての人間など、信用するものか。
だが、それならどこへゆけばいいのか。
[前略]無明綱太郎はつぶやいた。
「忠義はきらい。……女もきらい」
彼の眼に月はうつらなかった。天は暗かった。――彼はよろよろとあるき出した。白雪に覆われた地もまた、彼の視界には、霧のように暗かった。実際、彼のからだはうす暗い霧につつまれているようであった。
彼はじぶんにささやいた。
「無明綱太郎、おまえはどこにゆく」
——山田風太郎『忍法忠臣蔵』より。
それは芸術である。それは音楽であり、絵であり、体技であり、映画であり、アニメである。物語である。ことばである。
すべての人は、そして、ぼくのようなうさぎを含めた、すべての知的な活動をするものは、かならず精神と肉体のペアを損なうことができない。肉体という感覚器官(と意志の具体化としての動作を行う場)なくして、精神活動はありえないのだ。だが、この肉体こそ、人を限界に規定するものである。それが生まれ持ったものであれ、バーチャルの映像であれ、データの行き交う場であれ、器としての肉体の時間を超えて精神は確固たるものとして存在しえないのである。しかし、この肉体の限界を超えうるものが存在する。それが意味ある音のつらなりとしての音楽であり、線のつらなりと色の組みあわせである絵であり、意志の具現化としての姿勢や動きのつらなりである体技であり、それらの組みあわせとしての映画でありアニメである。パッケージングされた意味のつらなりとしての物語であり、芸術である。そして、それらを生み出すのは「ことば」である。
人は自分じしんでしかありえない。だが、その自分じしんを「ことば」で表現したとき、それは自分を超えて、誰かに届く。もちろん、ことばとは文化であり、文明であり、それは「世間」のなかでしか育まれないが、同時に「世間」を超え、「世間」を離れうる唯一の手段でもある。エッセイや私小説はそのことをもっとも簡単に示す。個人的なことを突き詰めれば、いつか普遍的な真実に至ることができるのだ。いびつな塊も、研ぎ澄ませば、なに物をも貫くするどい針となるように。
○ぼくは、そうした「ことば」によって表される、群れを離れた、ひとりひとりのこころを信じている。否、信じたいと思っている。人は世間を離れ、他の誰でもない自分じしんでいるときに、もっとも美しく、もっとも正しいと思っている。このことと、「群れ」としての人間を信用しないことは、だから矛盾しない。夏目漱石が『草枕』の冒頭でいったのは、まさにこのことであろうと、ぼくは信じる。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画[え]が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容[くつろげ]て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降[くだ]る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑[のどか]にし、人の心を豊かにするが故に尊[たっ]とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
——夏目漱石『草枕』より。
(太字強調は引用者)
参考・引用文献
イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/)
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