暴力の過去に沈黙のまなざしを――『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』
【週報】2017.06.19-25
よう。元気でやってるかい。
おれか。おれはいつも通りさ。酒とバラの日々ってやつだ。
酒、タバコ、本と映画、そして友。おれが生きるのに必要なのはそれだけさ。
もっとも、それ以外を切り捨てるってわけじゃない。異性も運動もウェルカムだ。来るものは拒まず、去るものは追ってしまう。それがおれのモットーさ。
さて、酒だ。
いったい、酒ってのはなんだろうな。
この文章を読んでくれているあんた。あんたは酒を飲むかい。
その酒は、どうして飲むんだい。
酒の味が好きだからか。友人や恋人と飲食のひとときを楽しみたいからか。酔っ払うのが気持ちいいからか。
それとも、もう、理由なんかわからなくなっているのかい。
おれたちが最初に酒を飲んだのは、友人との語らいのひとときを楽しみたかったからだ。そのときは、酒の味なんてわからなかったな。「いっしょに酒を飲んでいる」ってのがやってみたかったんだ。
するうち、酒の味がわかるようになってきた。ちょうどタバコを吸い始めるようになって、タバコを吸う前と吸った後では、コーヒーの味が違って受け取られることを知ったころのことだ。こうなると独りでも飲むようになる。味に集中するなら、他人はいらない。
酔っ払うのが気持ちいいと思ったことは、あまりない。誰かと飲んでいるときの空気感や、酒をたしなんでいる自分に酔って、気持ちいいと思うことはあるが、酒に酔うことそのものを気持ちいいと思ったことは、便器を抱いた数より少ないかもしれない。
そう、酒は苦しいものでもあるよな。悪酔いして、吐きもどすときの苦しさったらない。路上でのたうちまわり、酸っぱい胃液を吐きもどすと、腹にとぐろを巻いていたうらみつらみも一緒に飛びだしてくる。あの女が悪い。あいつが憎い。おれを顧みない世の中なんざどうにかなってしまえ。そんなみっともない本音が見えてくる。普段隠している、隠しておきたい、隠していたことも忘れていた自分が出てきちまう。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、直訳すれば「暴力の歴史」となるが、これは英語の言い回しのひとつで、「暴力をふるった過去(履歴)がある」という意味だ。
貼りつけた海外版のポスター画像にある、「Everyone has Something to hide」という一文は、もちろんこのタイトルと結びついている。
ちなみに日本版のポスターはこんな感じだ。
「愛と暴力の対立」なんて書いてるが、これはそういう話じゃない。まったく正反対と言っていいかもしれないな。「愛と暴力は同じものかもしれない」と、これはそういう映画でもある。
ストーリーじたいは、よくあるものだ。
田舎町で食堂を経営する男は、愛する妻と二人の子供と暮らす、良き夫、良き父である。夜中に「怪物が出てくる夢を見た」と子供が泣けば「怪物なんかいないよ」と慰め、いじめっ子を殴りかえして停学になった息子に「なんでも暴力で解決しようとするのは最低な人間のすることだ」と叱り、二人の子供がいない夜には「お互いの知らない、若いころのやんちゃな姿を見せあいましょ」とチアガールコスで迫るアラフォー妻とやんちゃなセックスをする。どこにでもいる平凡な男。
しかし、食堂を襲った強盗二人組を鮮やかに殺してのけたことで、この「平凡な男」の背中にほころびが生じてくる。従業員を救うため、果敢に強盗に立ち向かった英雄として報道されたことで、怪しいサングラスの男とその部下が彼の生活に現れる。サングラス男たちは彼を別の名で呼び、あたかも彼の過去を知っているかのようだ。食堂にやってきて、家を監視し、息子を捕まえて告白を迫る。サングラスの下の痛ましい傷痕を見せ、「おれの片目を潰したのはお前だ、そうだろう?」と。
そこで男は言う。
「あのとき、殺しておけばよかったな」
そう、怪物はいたのだ。なんでも暴力で解決しようとする最低な人間だった、若くてやんちゃなころの「ひとごろし」は、平凡な男の中に殺されず、生き残っていたのだ。
ここから先のストーリーを、言葉にする必要はない。あんたが想像するとおりにストーリーは進む。
だが、その果てに待つものは、あんたの予想とは異なるだろう。
おれはこのラストに、ある過去を思いだした。
おれが傷つけた相手の目。その人が、おれを見た、あのときの目。
そして、こう思った。
あの目は、誰かに傷つけられたおれの目、傷つけた相手を見た、そのときのおれの目でもあったろう。
そして、沈黙。
たいていの人間は、「愛」と「暴力」は違うものだと思っている。
「愛」とは優しい、慈しむもので、「暴力」とはおっかない、傷つけるものだと。
でも、本当にそうなのか。
愛するがゆえに嘘をつき、過去を消そうとした男は、彼の愛を信じた家族に対して、暴力を振るったのと同じじゃないか。
暴力によって傷つけられ、その報復をしようと男をつけねらったものたちの、男に対する信頼と執着は、愛と同じじゃないか。
どちらも「他人との関係性」の分類であり、「相手を思う」という点で同じなんじゃないか。
暴力を「変化をもたらすもの」と考えてもいいだろう。暴力は傷を残す。物理的な傷は、傷を負ったものが暴力の被害者であったことを他者に示し続ける。精神的な傷は、傷を負ったものが暴力の被害者であったことを事あるごとに思いださせる。
愛もまた、「変化をもたらすもの」だ。愛は人を変える。物理的な愛の証は、その人が誰かと愛し合っていることを他者に示す。愛の自覚は、愛し愛される自分を事あるごとに思いおこさせる。
「愛した過去」と「傷つけた過去」は、ともにその人物を形成する「過去」なんだ。
過去は変えられないし、変えてはならない。過去を否定することは、今の自分を否定することになるからだ。
もとより、そんなことは無理なのさ。過去を否定する今の自分を否定するなんて、玩弄する他ないパラドックスだ。
だが、過去と向き合うのは苦しい。
人生には他人がいる。てことは、思いどおりにいかないことのほうが多いってことだ。すると、過去は「思いどおりになった」ことより「思いどおりにならなかった」ことの方が、より多く蓄積されているものってことになる。だから過去はいつだって苦しい。
そういう苦しいものに直面したとき、人は酔うんだろうな。
酒や、暴力や、夢、物語。そして、愛。そういうものに酔うんだろう。
だが、酔いすぎると、今度は隠しておきたい過去そのものが甦ってきてしまう。暴力が、愛が、酒が、文字通り反吐をぶちまけるように迸る。路上にうずくまる、みっともない自分の前に、みっともないものが広がっていく。
逃げても逃げても追ってくる影は、いつだって自分の足元に伸びている。
光に向かい、求めれば求めるほど、長く巨大な影が足元に迫ってくる。
でも、それを嫌って、闇の中に身を置けば、自分と影の境目がわからなくなってしまう。
じゃあどうすればいいか。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のラストは、そのことをあんたら一人ひとりに考えさせるだろう。
その際のヒントは、「沈黙」だ。
この映画で、「愛と暴力」と同じく、対比されている要素が「沈黙と雄弁」だ。
おれは、この原稿の前半で、「愛と暴力は同じ」といったが、もしかしたら違うかもしれない。
「愛」とは「沈黙」で、「暴力」とは「雄弁」かもしれない。
それを踏まえて、一人ひとり違う過去を持つあんたらが、それぞれの過去に応じて、どう向き合うか、を考えてみるのもいいもんだぜ。
おれがどうしたかって?
それは、言うまでもなかろうさ。
(下品ラビット)
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