コロナ渦不染日記 #107
三月六日(土)
○こんな夢を見た。
かつて縁のあった相手が、いまは結婚して、結婚相手と暮らしている、その家にあげられるのである。しかし、縁のあった相手は、昼寝をするからと引っ込んでしまい、こちらはひとり、居間に取り残される。そこで、ひとりうす暗い居間で本を読んでいると、『結婚相手が帰ってくるからそろそろ帰れ』と言われる。その家を出ようとしたところで、宅配便がやってきて、今度はその荷物を運び込む手伝いをさせられる。その荷物は、おもちゃとAVばかりが入っている。
○映画『スケアリーストーリーズ 怖い本』を見る。
傑作ゴシックホラー映画『デビルズ・バックボーン』と『パンズ・ラビリンス』を監督したギレルモ・デル=トロが監修を務め、傑作怪奇幻想フェイクドキュメンタリ『トロール・ハンター』を監督したアンドレ・ウーヴレダルが監督した、ヤングアダルトむけのホラー小説を映画化した作品である。この二者が作品を作るにあたり、意気投合した結果とおぼしいのは、「強者の語る『事実』によって傷つけられ、虐げられた弱者が、強者に対抗するために用いる唯一の武器が『物語』である」という構造である。これは、ジャン・パルーのいう「妖術」であり、作中でこの「妖術」を駆使するのはミシュレのいう「魔女」であり、つまりこれこそが「伝奇」である。ここはすばらしいところだ。
しかし、いっぽうで、そうしたテーマを語るのに、この映画はすこぶる冗長である。描かれる怪異は、原作小説からのものであろうと思われて、ために短編としては成立しているものの、ひと続きのストーリーを構成するための工夫は特になく、漫然と並べているだけである。テンポが悪く、見せ方もどこかおざなりである。ここは惜しいところである。そして、どちらかというと、ぼくにはこの惜しい印象のほうが強かった。
○夜。相棒の下品ラビット、イナバさんと、岬で会食する。
○帰宅途中、路上にゲロまみれのマスクが打ち捨てられているのを見る。コロナ禍中の嘔吐はさぞかし苦しかろう。まさに、
「事物や境遇によって彼自身の自我を定義する能力や理性的・精神的な自由が侵されている」
――Wikipedia「嘔吐(小説)」より。
のである。
○本日の、全国の新規感染者数は、一〇五一人(前週比-一六三人)。
そのうち、東京は、二九三人(前週比-四四人)。
三月七日(日)
○昼過ぎに、妹うさぎとその夫である義兄弟うさぎが、姪うさぎを連れて、巣穴にやってくる。前日に車でやってきた父うさぎ、母うさぎと、ぼく、そして下品ラビットをあわせた六匹が一堂に会して、なにをするかといえばひな祭りである。
巣穴には、母方の祖母が、妹うさぎのために買ってくれたという、豪華七段飾りのひな人形がいる。ぼくと父うさぎでそれらを展開しつつ、下品ラビットと母うさぎがちらし寿司を作って、姪うさぎたちを待ちかまえた。
○やってきた姪うさぎは、よく笑う子になっていた。ということは、彼女に対して、妹うさぎたちがよく笑いかけているということであろう。ぼくたちうさぎも知性を持ち、人間のそれと接する社会を構成して生存する生きものである以上、さまざまなしぐさと感情を、他者から学ばねばならない。ということは、姪うさぎが笑うことができるのは、彼女のまわりに笑うものがいる、ということの証左となるのだ。
その姪うさぎにとって、今日ははじめてのひな祭りであり、はじめての会食ということになる。といっても、彼女はちらし寿司は食べない。彼女用の椀に盛り付け、膳を用意するだけである。これもまた、ぼくたちうさぎが社会生物であるからこそ、行わねばならないことである。たとえその食物を口にしなくとも、「膳を用意された」ということじたいが、姪うさぎを「膳のある社会」へ参与させたことを意味するのだ。
考えてみれば、これは仏壇に供え物をするのとおなじことだ。仏壇にいる(ことになっている)祖先は、物理的な食事をとらないが、「彼らに食事を用意した」という事実が、彼らをぼくたちの物理的な社会と論理的に――あるいはに――結びつけるのである。ルーディ・ラッカー『ソフトウェア』よろしく、肉体や動作をハードウェア、魂や実存をソフトウェアと考えるならば、前述の論理的、あるいは霊的な結びつきは、ソフトとハード、そしてソフトとソフトをつなぐ際のプロトコルということになろう。
○姪うさぎの笑顔を見ながら、ちらし寿司を食べ、妹うさぎたちと近況を報告しあいながら、ひさしぶりに姪うさぎのおむつを替えるなどしていると、いつの間にか夕方になった。姪うさぎたちは友人宅へむかい、父うさぎは田舎へ帰り、ぼくと下品ラビットはうとうとした。
○本日の、全国の新規感染者数は、一〇六五人(前週比+六五人)。
そのうち、東京は、二三七人(前週比-九二人)。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/)