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寝苦しい夜に異次元の光景を――『怪談』

【週報】2017.07.31-08.06

やあ。元気してるかい。下品ラビットだ。
今日も暑いな。八月に入って、暑さとともに湿度も増してきた。風があれば窓を開けてすむんだが、そうもいかない夜なんかは、エアコンのお世話になっちまうな。

暑い夜に涼むなら、エアコンより怪談だ。そう思って、前回は怪談話をマクラに『13日の金曜日』の話をしたっけ。
あのあと、シリーズ第十作『ジェイソンX』を、ひさびさに見た。おもしろかったぜ。

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舞台を約四〇〇年後の未来にうつして、SFの要素を足したことで、かえって『13日の金曜日』シリーズのうま味が抽出される。「スケベしてるとジェイソンが甦るぞ」て教条的なくだりを露骨に踏襲したり、マスクの下の顔がシリーズ設定を踏襲した異形だったりすると、十作目になっても見ているファンに誠実に向きあおうとしているのがわかるよな。
一方で、「なにがあってもなんとなく甦るジェイソン」て展開が、シリーズ十作目になってさらにエスカレートし、SF的なナノマシンによって代替パーツを作られ、再生したサイバージェイソンなんてものが出てきたりする。また、サイバージェイソン以前のジェイソンを「殺す」のが、いかにもSFらしい「ラストガール」だってところにも気が利いてた。
以前見たときは、たしかVHSビデオテープだったはずだから、随分と前のことだ。おれたちはすっかり詳細を忘れていた。おかけで新鮮な気持ちで見られたところもあるが、やっぱりもともとできのいいシリーズ作だったなと思ったよ。
なんどでも繰り返し語られることで、その時どきの流行や発想が追加されて新鮮な味わいをかもす一方、時を超えて伝わるエッセンスが抽出されてくるのが、再話の面白さであり、シリーズが続くことの醍醐味だ。

では、日本ではどうか。怪談の伝統は、映画の世界にどう描かれているのか。そう思って、今回はこれを見たぜ。

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小泉八雲ラフィカディオ・ハーンは知ってるよな。ギリシャ系のイギリス人で、明治期の日本に特派員としてやってきて、その後英語教師になった。日本国籍を手に入れ、「小泉八雲」を名乗るようになり、日本の古典文学を再話したものを英米に紹介した。
その代表作が『怪談』だ。英語版のタイトルは『KWAIDAN』。「か」が「kwa」になっているのは、古い日本の発音を表音化したものだからだ。こういうところに、なんともいえない骨董品めいた味わいがあるよな。
そうそう、「骨董」といえば、ハーンには『骨董』て作品集もある。おれたちがハーン怪奇小説の最高傑作と考えている作品の一つ「幽霊滝の伝説」が収められている。おれたちがまだ子供のころ、母親がこの話をしてくれた。禁忌を犯す闇夜の冒険がたどり着く凄惨なオチに、子供心におぞけをふるったもんだ。ちなみにもう一つの傑作は、『日本雑記』に収められている「破約」、別名「破られた約束」だ。「幽霊滝」との共通点は「首をもぐ」展開があることだ。おそろしいぜ。

この『怪談』から「耳なし芳一」「雪女」、『骨董』から「茶碗の中」、そして『明暗』から「和解」という短編を取り出して「黒髪」と改題して映像化したのが、1964年の映画『怪談』だ。
この映画、とにかく美術がすごい。1964年だから、当然のことだがCGはない。すべて撮影と合成の物理的な映像トリックなんだが、結果、異様な物理的迫力を持った異次元描写になっているんだ。
たとえばこのビジュアル。おれはもう、これだけでたまらない。

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これは「雪女」の一場面だが、「世界を見ている目」への畏怖が、しんしんと心に湧いてくる。この「目」がなんなのかは人それぞれが考えることだろうが、おれは「あの世」だと思う。もっとも、この場合は「死後の世界」ってんじゃなくて、「人外の世界」、つまり「異次元Outer Zone」だな。
それからこれ。

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「耳なし芳一」の一場面だが、カキワリの背景が一種異様な現実感を伴っている。物理的な質感を持った、でも現実を超えた光景だと思えないか。

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この夕暮れの景色にしてもそうだよな。確かに存在していることがわかるんだが、しかし、こんな景色の見え方は、現実にはありえない。
現実の光景を、むりやり誰かの主観を通してみているような異化作用が感じられる。実は、それこそ「怪談」、つまり「再話」の効果なんだ。

もともと、原作の『怪談』は、ハーンのオリジナルではない。彼が日本に居ついてから、結婚した女性「節子」の手を借りて、いろいろ聞き集めた怪談話や幽霊話、不思議な話を、彼なりに書き直し「再話」したものなんだ。
いや、ことは『怪談』だけにとどまらない。実は、すべての「お話」が、そうした「再話」なんだ。「再話」の元になる「一時的なお話」や「事実」というものは、すべて語る者の外側にある。それらをいったん語るものが取り入れ、自分の主観を通して語り「直す」ところに「語る」ということの必ず通らねばならない過程がある。「再話でないお話はない」といってもいいだろうな。再話でないとしたら、それは「事実」であるし、再話もまた、いつか別の再話となるべき「事実」となっていく。
語る側の前に事実があり、語る側の背後に「再話」があり、それらは厳然と隔てられているんだ。
それはちょうど、「ジェイソン」という殺人鬼の物語が、「ジェイソンの母」によって「再話」された、一番最初の『13日の金曜日』が、シリーズを重ねるごとに「再話」されていき、ついには宇宙を超えていくまでになるのと同じことだ。
もちろん、この映画『怪談』も「再話」だ。だからこその、CGを用いない、異様な背景美術なわけだ。原作つき映画もまた、一つの「再話」なのさ。

ところで、この映画のなかで、もっとも「再話」としての力が強いのが、オムニバスの最後に置かれている「茶碗の中」だ。これは原作からして、非常に「再話」の構造が強く、それだけに、ほかと比べても異様で、独特の味わいのある短編になっている。

 諸君はこれまでに、どこでもいゝが古い塔かなにかのまつ暗な闇の中にそゝり立つ階段を上らうと思ふやうな時、その真の闇の中の、行手は蜘蛛の巣だらけなどん詰りよりほかに何もないやうな所に見を置かれた経験があるだらうか。でなければ、どこか断崖を切り開いた海沿ひの道を辿つて行つて、もう一足曲れば、そこはすぐもう絶壁になつてゐるといつたやうなところへ出られた経験があるだらうか。かういふ経験の感情的価値といふものは、これを文学的見地から見ると、その時喚び起こされた感覚の強さと、その感覚の記憶の鮮かさとによつて、その価値が決定せられるものである。
 こゝに、日本の或古い物語の本の中に、まことに不思議な事であるが、殆どこれと同じやうな感情の経験を覚えさせる小説の切れ端が残つている。……

これは岩波文庫版『骨董』に収められた、平井呈一翁の翻訳による「茶碗の中」の出だしだ。こうして始まるお話は、あらすじだけ取り出せば一行二行でこと足りる。

「ある侍が、茶碗の中に見えた、自分ではない若侍の顔を、お茶ごと飲み込んでしまったために、この世のものとは思えない奇妙な侍たちにつけねらわれる」

こんな話だ。実際、岩波文庫版では六ページしかない。しかも、出だしでハーン自信が語るように、この話は「切れ端」として収録されている。前後にハーン自身の説明がつきはするものの、基本的にはぶつ切りだ。なにがなんなのかさっぱりわからん。
だが、これこそが「やがて再話となる事実としての再話」なんだ。現に、このなんだかよくわからない話の、映画にした人々がいる。そして、なんだかよくわからない感触を受けとったおれが、その「なんだかよくわからなさ」をどうにかして伝えようとしている。
この「異次元Outer Zone」の感覚の授受こそ、「語る」ということの真骨頂であり、「怪談」の醍醐味だよな

異様さのなかに取りのこされるとき、人は真に孤独を感じる。いや、「孤独であることに気づく」と言った方がいいかもな。
おれたちは「孤独になる」んじゃない、最初から孤独なんだ。「孤独に気づく」んだ。
他人によって暖められることはある。しかし、それも長くは続かない。ほうっておくと、おれたちは孤独に冷えていく。もちろん寒いばかりでいるのはよくない。だから人は、他人とともに生きなければならない。そのためにコミュニケーションが必要だ。
しかし、それも時に暑苦しい。特にこんな暑くて寝苦しい夜は、誰かと抱きあうよりも、独りで、この世の外の景色を眺めて過ごす方が、涼しくていいんじゃないかい?

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(下品ラビット)

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