コロナ渦不染日記 #114
三月二十六日(金)
○今日から、有休消化のための休暇に入る。仕事など、すすんでしたいものではないが、会社の都合で休まされるのは、業腹ではある。しかし、休めるなら、それはそれでありがたい。もちろん、そのための準備、根回しはしっかりとおこなって、年度が改まるまでの残り五日は、なにもしなくていいように努力した……つもりであったが、結局は週明けに現場と連絡をとらねばならなくなった。
しかも、今日も今日で、現場を引き継ぎした後輩から、くだんの現場に関する連絡がきたりもした。丁寧に対応はしたものの、面倒な気持ちになるのを禁じえない。
○有休消化というのは、結局、制度が目的を動かしているのである。「あるていど自由に休暇を取得できるようにする」という目的を、「自由に休暇を取得できるようにしたのだから、休ませないのはおかしいので、年度内で規定の日数はかならず休ませるようにする」という制度が動かして、年度末に消化できていなければ、強制的に休ませる――というのが、有休消化ではあるまいか。
あきらかにねじまがった状況である。休む権利があるのなら、休まない権利もあるはずで、それらはともに「権利」である。だから、休む権利を無視せず、休まない権利を無視するのは、権利の中核に仮定されている自由意志を無視していることになる。
「有給休暇消化は義務化された」のであるから、有休消化は権利ではない――などということを言いだす輩は、愚か者である。この義務は、企業に付されるものであり、「労働者に有給休暇を利用する権利を認めることを義務化」するものである。「労働者が有給休暇を利用することを義務化」しているわけではない。だが、この義務化によって、「義務を果たさなかった企業への罰則」が設けられることになり、その適用を恐れる企業から、「有休は消化しないといけない」といったサジェストが行われるようになったのである。現に、ぼくはそのようなかたちでのサジェストを受け、しぶしぶ有休を申請したものである。これでは、権利が守られているなどといえない。
○そうした怒りを込めて、テレビドラマ『ザ・ボーイズ』を見た。
基本的な設定は、アンチ・アメリカンコミックスの金字塔である、アラン・ムーア『ウォッチメン』と、アンチ・スーパーマンにして正統派スーパーマン物語である『スーパーマン:レッド・サン』の直線上に存在する、「ヒーローもまた限界のある人間である」というビジョン――アメリカンコミックスの脱構築――に基づいている。が、そこに、「だから、ヒーローも、経済やマスコミといった『不条理性を内包する社会構造』に押しつぶされる」という視点を持ちこんで、ブラックな皮肉を効かせたトラジコメディに仕立てたところに、このシリーズの妙味がある。さすが『HITMAN』シリーズの、そして『パニシャー・キルズ・マーべルユニバース』のガース・エニス原作である。
『パ二シャー・キルズ~』にも、『ザ・ボーイズ』にも、社会の不条理とねじまがった状況に対する怒りがこめられている。『パニシャー・キルズ~』のほうが、より原初的で直截なあらあらしさで描かれているが、『ザ・ボーイズ』のほうが、より複雑で洗練されている。これは、前者をふまえ、後者が作られた、ということであろう。
○嵩峰龍二『雷の娘シェクティ 3・黄金の封印』を読む。
○本日の、全国の新規感染者数は二〇二七人(前週比+五六四人)。
そのうち、東京は、三七六人(前週比+七三人)。
三月二十七日(土)
○午前中は『ザ・ボーイズ』を六話まで見る。物語の発端になった、小心者の小悪党〈A-トレイン〉の落ちていく姿は、もちろん彼が自己保身しか考えていない身勝手な愚か者であることのむくいであるのだが、それは我々のなかにもある「弱さ」のカリカチュアであると気づくと、同情を禁じえない。この物語で、ひとまずの主人公を務める青年「ヒューイ」の恋人を「超スピード事故」で死なせたことは、もちろん赦されることではないが、そういうことをしてしまったときに、自分が所属する組織や共同体が積極的に動いてくれるのをいいことに、そのおおきな影にかくれて、まんまと自己保身を図ろうとする「受動的な態度」をとる「意志の弱さ」を持たない社会的生物は、いないだろうから。
誰もが、自分だけが、自分の置かれた状況に直面することなく、事態が過ぎ去って、自分の都合よく解決することを期待している。だが、それは責任転嫁という、「個」として生きねばならぬ「呪い」を増幅させる毒を、自らのうちに増やすことでしかない。受けとめそこねた、あるいは受けとめることを拒否した責任は、誰にも受け取られないまま「社会」や「世間」のうちをさすらう。しかし、そうした時間の経過で、責任が消滅することはまれで、ほとんどの場合は、最初に現れたときよりもおおきく、つよくなっていく。
○ぼくは、シェイクスピア作品のなかで、『マクベス』がいちばん好きだ。それは、『マクベス』が、「自分が自分でしかない」ことに付随する責任を、どううけ止めるかということの話でもあるからだ。
マクベス やってしまって、それで事が済むものなら、早くやってしまったほうがよい。
――シェイクスピア『マクベス』第一幕第七場(福田恆存・訳)より。
このセリフは、マクベスじしんをして悪の道に走らせ、地獄へつづく坂道へと突き落とすことばであるが、彼の問題は、じつはこのようにいっておきながら、実際には早くやりもしなければ、うまく事を済ませられもしなかったことにある。そこには、結局責任の転嫁がある。事態や、そこににじみ出る自らの欲望に直面せず、勢いまかせでやみくもに行動したために、彼は最初の一手を間違えた。手元を見ずにナイフを動かせば、自分の指を傷つける愚を犯すのは、ちゃんと考えれば子どもでもわかることなのに。その愚をおかさなければ、「早くやってしまったほうがよい」という決意が、望む未来へとつながるものになるのに。
そのことは、続くマクベス夫人のセリフにも指摘されている。上記のセリフの裏側にひそむ、マクベスの逡巡をさとった夫人は、夫にこう告げる。
マクベス もう、やめにしよう。[後略]
夫人 では、今まで身につけていらした望みは、ただ酒のうえのこととでも? そのあとで一眠りして、いま目がさめてみると、さっきは平然と見据えられていたものが、今度はちらと垣間見ただけで、ぞっとして気が沈むと? 解りました、私への愛情もそんな頼りのないものなのでしょう。考えていらっしゃる御自分と、思いきった行動をなさる御自分と、その二つが一緒になるのを恐れておいでなのですね? ひそかにこの世の宝とお思いになり、それがほしくてたまらぬ方が、われから御自分を臆病者と思いなし、魚は食いたい、脚はぬらしたくないの猫そっくり、「やってのけるぞ」の口の下から、「やっぱり、だめだ」の腰くだけ、そうして一生をだらだらとお過ごしになるつもり?
――シェイクスピア『マクベス』第一幕第七場(福田恆存・訳)より。
(セリフ中の太字強調は引用者)
『マクベス』の物語を知っていれば、上記の夫人のことばが、マクベスをそそのかした魔女のそれと同様、彼じしんの決断を肩代わりして、「あいつがああ言ったから……」という責任転嫁をうながす役割しか果たさなかったことはわかるだろう。しかし、それはマクベスの問題である。彼の責任転嫁を求める態度こそ、この金言を泥に変えたのである。そして、その問題と、マクベスじしんがどう向き合うかの結論が出たところで終わるこの物語は、坂口安吾「堕落論」から引用すれば、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見」するものである、という点で、『ザ・ボーイズ』にまで続く普遍性を持つ。ぼくたちも、〈A-トレイン〉も、「堕ちる道を堕ちきる」べきなのだ。
○午後は、相棒の下品ラビット、イナバさんと、神保町のカレー屋「マンダラ」でランチをすることになった。
「マンダラ」では、タンドリーチキンとシークケバブがついて一六八〇円の「Aランチ」を注文した。チキンとケバブがつかない「Bランチ」が一二〇〇円なので、五〇〇円足して大幅にボリュームアップできることになる。さらに、ランチ限定で、カレーを二種選べる「ダブルカレーランチ」にもできる。今日はマトンカレーとたまごのカレーをチョイスした。インド/ネパールのカレー屋さんはどこもそうだが、焼きたてのナンが大きくてもちもちなので、ダブルにしても、カレーとナンの配分を合わせることができて、しっかり食べきれるのだ(もちろん、サフランライスもついてくるから安心だ)。
おなじくAランチを選んだ下品ラビットは、
「タンドリーチキンをほぐしてカレーにつけるのが好きなんだ」
と言いながら、シュリンプカレーに、ナンでするのと同じように、チキンをつけていた。
○三匹とも腹いっぱいになってお店を出た。あてもなく、ふらふらと歩き出し、しばらくしたところで、イナバさんが、
「いい天気だし、花見をしよう」
と言い出した。たしかに、青空に雲のほとんどない、快晴といっていい昼下がりは、最高の散歩びよりである。とりあえず、ほてほてと清水門のところまで行くと、案の定、門のところには、このたびの災禍における感染拡大防止のため、入園はできない旨の掲示があった。
「このまま、千鳥ヶ淵公園まで、北側をぐるっと回ってみようぜ」
「食後のいい運動になるね」
などと話しながら、散歩を継続した。
敷地をぐるりとかこむかたちの歩道沿いに、たくさんの桜が植えられて、ほとんどが七部八部の咲きかげん、満開は翌週かと思われる。なかには、すでに花を葉にとりかえたものもあったが、しだれ桜などはつぼみのものも残っていて、本格的な春の訪れは予感のみであった。
ぼくたちの進む先は、どこの歩道にも、人や動物があふれていた。彼らは、慣例的にマスクをつけてこそいるものの、我先にと花のしたに立って、カメラをむけたり話したりしながら、互いの距離を近づけている。グループごとになっている、そのグループ間の距離が近いのは、みな、この災禍のことを忘れているというよりは、その不安のうえに、春の訪れを喜ぶ気持ちをかぶせたいと考えているようだった。このあさはかさと背中あわせの楽観こそ、山田風太郎が『戦中派不戦日記』に記録した、日本人の本性である。だが、そうした気持ちを、ぼくも、嫌いにはなれない。
桜の木の根元に、菜の花が黄色い花を咲かせているのを見つけたのは、菜の花が好きになれないというイナバさんだった。山村暮鳥の詩を思い出させる、いちめんのきいろを、距離をとって眺めているものがまず気づくというのは、皮肉ではなく、こころの面白いところである。好きであるよりも、嫌いであるほうが、対象をより正確に把握している場合があるのである。
千鳥ヶ淵公園にさしかかったあたりで、空がうすくかげった。風がつよくなり、雲が流されてきたものと見える。時計を見れば午後も三時をすぎていた。
○本日の、全国の新規感染者数は、二〇六九人(前週比+五五三人)。
そのうち、東京は、四三〇人(前週比+八八人)。
三月二十八日(日)
○朝から田舎へむかう。電車はそれなりに混んでいる。
○先週の木曜日から、全国を駆けめぐりはじめた、東京オリンピックの「聖火」が、今日から栃木県に入り、明後日には、ぼくたちと入れ替わりに、ぼくたちの田舎である群馬県に入ることになる。そういうご時世で、どうして電車が混まないだろうか。
○山田風太郎『地獄太夫 初期短編集』を読む。
あの『甲賀忍法帳』や『妖異金瓶梅』、『誰にでも出来る殺人』、『棺の中の悦楽』の作者、希代のストーリーテラー・山田風太郎の小説として、ここまでひねりのない作品群も珍しい。もちろん、表題作のような傑作も含まれてはいるが、基本的にはストレートな筋だての先品ばかりで、それは、ここに収められた作品が、小説家・山田風太郎のデビュー間もないころに書かれたものであるからだが、しかし、それでもなお、凡百の小説とくらべて圧倒的におもしろいから、天才とはすさまじいものだ。山田風太郎が書いてしまった凡作は、その他の作家にとっての佳作、秀作なのだ。
それに、いくつかの作品を続けて読むと、山田風太郎が「おんな」に込めたイメージが見えてくる。作家・山田風太郎の描く「おんな」は、誰からも憎まれる妖婦か、誰からも愛される聖女であることがおおいが、その実、両者は「男を狂わせ、破滅させるもの」という点で、おなじものであった。それは、山田風太郎が「おんな」に見ているものが、彼の知る、確実にひとを狂わせたもの――「国家」――であるからだ。『戦中派不戦日記』に、火のにじむような、血の吹き上がるような筆でつづられた「8.15」への思いこそ、作家・山田風太郎誕生の根源にある、山田風太郎の本質である。それは、デビューのときから変わっていない。そのことが、この作品集を読むとわかってくる。表題作に描かれる伝説の遊女「地獄太夫」こそ、そして読むだにおぞけをふるわずにいられない「芍薬屋夫人」のヒロインこそ、第二次世界大戦の前後に「日本人」を狂わせた「国家」の化身であろう。
○田舎では、父うさぎと、叔母うさぎと、〈箕面ビール〉の「おさるIPA」が待っていた。
IPAらしいがつんとした苦みと、すっきりとしたあとくちがクセになる。おさるのラベルもかわいい。調べると、おさるのイラストをプリントしたTシャツがあるらしく、さっそく注文してしまった。
これで、明日、現場に連絡しなければならない、休日返上の予定さえなければ、もっとこころ穏やかにすごせたろうに。
○本日の、全国の新規感染者数は、一七八七人(前週比+六六九人)。
そのうち、東京は、三一三人(前週比+五七人)。
新規感染者が、大阪を中心に増大傾向にある。これでもまだ、オリンピックを開催するつもりなのだろうか。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣ギ画」(https://chojugiga.com/)