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バラック小屋での原体験①

祖父母が住んでいたのが平屋・木造建築のバラック小屋だった。関東の田舎である。

(書くにあたりバラック小屋でいいのだろうか?とググってみたところ、厳密には違うかもしれないのだが、私の記憶に強烈に残る外観と雰囲気はまさにそれであったからそのままにする。)

                       画像:中日映画社様より


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー突然だが私の幼少期を紹介しよう。

「急に」ということと「極端」ということと「リスク」がつきまとう私の人生は、母が臨月に急に東北の故郷に帰りたいと言って、小さな町の産婦人科で40年前に無事産まれたところから始まる。
数回の妊娠がすべて流れてしまい、さらにマル高になってしまいハイリスク妊婦として天下の東大病院にお世話になっていた母が「臨月に転院なんて責任もてませんよ。」と東大医師に言われて生まれたのが私である。生まれる前に既にリスクを負っていたんだなと笑える。

生活の拠点は関東にあったようなので、生まれてほどなくして関東へ戻り、それから母は育児と家事と、自宅で教室を開いたり、体調が悪化して持病が判明したりとで義父母との同居生活がうまくいかなかった模様である。私が物心ついた時すでに、父方の祖父母(母にとっての義父母)はバラック小屋に住んでいた。母の実母はというと母の産後に死んでしまったらしいので、同居は無理でも母は義母をほんとうの母のように慕っていたらしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー園児の私の生活環はこうである。
まず、私の幼稚園がバラック小屋の近くにあった、というか、小屋の近くの幼稚園に決められたようだ。バラック小屋は駅近にあったから、幼稚園はさらに駅に近くロケーションとしてはそこまで怪しくは無かった。むしろ厳しめの、お勉強もさせる感じの園で、集団生活がそもそも合わない私は人生早々に脱落がちであった。


全然楽しくない幼稚園が終わると、毎日祖母がお迎えに来てくれてホッとしたものだった。一緒に歩きながら小屋へ帰る。夕飯時になると母が車で駅の向こうからやってきて、一緒に夕飯をし、時には風呂に入り、夜車に乗せられて実家に帰宅して就寝して、朝は園バスで登園するという生活だった。ちなみに実家のある、駅の向こうは新興住宅地できれいな街並み、こちらはヤバい街並みである。


園でしゃべったという記憶がほぼ無く、楽しかった記憶は数回しかない。身体がとても小さかっただめ、それでいじめられたりした。偏食でもあり、給食の宅配弁当が全然食べられなく、少しだけ手を付けて先生に持っていくと、先生は「これしか食べてないのに持ってくる子がいます。」と皆に弁当を見せびらかした。ロールパンが出た日はロールパンだけは好きだったため、丸ごと口に放り込んで消費しおかずは一切食べずに先生に提出した。一番小さくて意思表示もできぬ弱い園児なのに廊下に立たされたり、怒られる事しかなく、トイレも練習させられて(出来なかった…)とにかく園は苦痛でしかなかった。毎朝絶賛登園拒否でソファーの隅に隠れていた。

おまけに酷い中耳炎持ちで始終耳鼻科通いであったらしい。幼稚園よりも耳鼻科に行っていた日が多かったのではと母は語る。母にしてみれば、一番小さくて弱い園児で心配の元である私が大の幼稚園嫌いで毎朝しつこいほどの登園拒否、先生からも注意という連絡しかない、おまけに中耳炎持ちで始終耳鼻科に通わなければならず、毎回泣き叫ばれるという状況。さすがに通院は祖母に全面的にはまかせられなかった模様である。そして母は自分の仕事と家事と体調メンタルその他(更年期とかも重なっていた)で当時相当なストレスであった模様。

幼稚園終わりに娘を義祖父母宅に預けるというのは必然的だったし、とても救いになったのだと思う。
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その祖父母のバラック小屋であったが。
大変な副流煙部屋であった。祖父母は毎日1箱は開けてしまうような、極度のヘビースモーカーであったのだ。ヘビースモーカーの部屋というものはありとあらゆるものが黄変し、臭くなる。硬貨やお札までもが匂う。鼻水が出て、ティッシュを使おうものならそれすら匂いでより悪くなりそうなものである。また、40年前の当時は子供の前でたばこを吸う事にも今ほどとやかく言われなかったのである。換気扇の前でなど吸わない、目の前である。

祖父母がぷかすかどんどん吸殻を溜めていく、緑色をした分厚いガラスの深鉢な灰皿には5cmほどヤニの塊であるどす黒い液体がたまっており、幼児心に「これ飲んだら○ぬんだろうナァ」と本能的に感づき近寄らないようにしていた。そしてとんでもなくクサかった。



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