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病んでるヤブ医者元谷さん #2「吐瀉」

高橋は憂鬱な面持ちで自宅のマンションのエレベーターに乗っていた。
今日の父は”どちら”だろうか。
躁なら適当にあつらえばいいものの、
鬱の場合はまた俺か母に暴力を振るってくるだろう。
以前に受けた打撲跡がじんわりと疼く。
だがそれは、痛みとは違う重さのようなそれだった。
自分が感じる痛みには、いつの日からか慣れていた。
麻痺したのか、”そういうもの”として受け入れるようになったのかわからない。
だが、母に危害が加えられないように気を遣うとなると…
ただでさえ実家は居心地が悪いのに、と元谷はため息をついた。
エレベーターを降りると、実家の部屋の前には数名の警官がいた。
高橋は、近隣住民の通報かな、と思い肩をすくめると、
「ご苦労様です」
と警察手帳を広げて申し訳なさそうに割って入った。
すると玄関先には、なぜか永井の姿があった。
おかしい。
じわり、と汗が滲み始める。
以前にも父が狂乱して通報沙汰になったことは何度かあったが。
永井さん本人が出てくることは、今まで一度もない。
ただでさえ現場には出たがらない人だ。
今までと違うなにかが、あった。


永井は高橋と目が合うと、目線を落として頭を掻いた。
「よう…あのな」
やめてくれ。
「お前さんが出て行ってからちょうど通報が…」
まさか。
「おっかさんももっと早く動くべきだと言ってたらしいんだが…」
そんな。
「1週間前から、妹さんが行方不明だとよ」
ぶわっ、と冷や汗が噴き出し、全身に鳥肌が立つ。
ぐらり、と平衡感覚が逆転し、その場に崩れ落ちそうになるのを隣にいた警官が慌てて支えてくれる。
「奈由美…」
俺は数年前の事を思い出し、ぎゅるん、と胃がうねる。
警官の手を振り払い、メーターボックスまで手すり壁にぶつかりながら歩くと、四つん這いになって嘔吐した。
「永井サン…アレ…大丈夫です?」
警官は目をぎょっとさせながら永井に問いかけた。
「アイツな、5年前に同じようにもう一人、妹サン亡くしてんだわ」
「今回とおンなじようにエムってからは…隣町にチドリ川ってあンだろ?」
「バラされたホトケさんがドザエモンで見つかってな」
「ヂドリしようにも河川だからアテは膨大だし、ゲンジョウもねェからゲソコンもありゃしねェし、マルボウもゲソコンもねェ、ウキにウイたソウイチもお手上げの完全なウマヅメのヤマだったもんでな。チョウバはもうほとんど動いてねえんだわ。」

「・・・・・・エット・・・」

「あ、お前新人か?」
「いえ、5年目ですけど…」
「なんだよ知らねえのか?ヘレンケラーかオメー?」
「ヘ、ヘレンケ・・・?」
人が変わったかのような永井に警官たちは数歩たじろいでいたところで、
高橋宅から大柄な男が出てきた。
「永井ィ、ソウイチの癖が抜けきってねえな。」
永井はその男を見ると、とたんに大声を上げた。
「岡島…!!今回もオメーっておかしいだろうが!!どの面下げてココ来てんだよ!!」
「”高橋奈由殺害事件”捜査本部長だからよ、今回のヤマも関連性は否定しきれねぇだろうが。」
「お前こそ早く庶務課戻れよ。”エス飼いの永井”警視さんよ。」
岡島と呼ばれた男はトン、と永井の肩を叩くとニヤリと笑って
「あぁ。”元”だったっけ!ハハッ」
と冷笑してみせた。


ふたりがにらみ合っている中、
岡島に連れられてきた刑事たちは何が何だかわからない様子だったが、
そのうちの眼鏡を掛けた一人が、器用にスマートフォンの録音データを警察のデータバンクAI『わかるゾウ』に参照させて”翻訳”させていた。
「エエット…みんな、とりあえず聞いてくれ」
刑事たちは眼鏡の刑事に向き直った。
眼鏡は眼鏡をスチャリとかけなおすと、タブレットを片手に得意げに解説を始めた。
「俺のデータによると、永井さんが言っていたのはだな・・・」
「5年前に今回の失踪者の妹が同じように行方不明になり…隣町の河川でバラバラ死体になっている状態で発見されたらしい。」
「死体の腐敗状況からして、おおよその放流元は絞れた…と思われていたが…」
「放流元と思しきN町では数か月に及ぶ調査の末、全く情報は得られなかった。捜査本部は実質解体、俗にいう迷宮入りの状態にあるらしい。」
「と、いうことだ。」

「ヘレンケラー、というのはかつて幼少期から視覚、聴覚を失ってもなお障害者の教育・福祉の発展に尽くしてきた偉人らしい。恐らくは俺たちが用語を理解できないことを揶揄したものだろう。」
「時代錯誤も甚だしい、非効率な用語だな」
岡島と言い合っている永井を横目で見ると、
「これはパワハラ、かな」
フッ、と眼鏡に手を当てて笑って見せた。
「おお」、「さすが一課のゾウ使いだな」、「よっ、慶王首席!」と感嘆の声が他の刑事から上がる。
そうしていると、
後ろから介抱していた刑事をよそによろよろと高橋が歩いてきて恨み声で吐き捨てた。
「そして…そのときの捜査本部長がそこにいる…岡島サンですよ…」
それがなんなんだ、と言いたげな怪訝な顔で眼鏡の刑事はタブレットの指紋をクロスで拭いた。

「おお、高橋ィ。大丈夫かァ?」
岡島はヘラヘラとしながら永井との会話を強引に断ち切って高橋に寄ってこう続けた。
「自宅を調べさせてもらった。お前の部屋相変わらず女ッケねェなァ!ハッハッハ!」
「岡島サン、なにか手がかりは?」
今にも岡島に掴みかかりそうになりながらも、高橋はあくまでも冷静に問うた。
「言っちゃあ悪いが、”今回も”ゼロだな。奈由さんの捜査本部にコイツらを加えて、引き続き捜索を行う予定だ。」

「俺も加えてください、って言ってもダメなのはわかっています。」
高橋は嚙み締めていた唇からわずかに血を滴らせながら、
「今回の件は、事件性があるかどうかもわからないでしょうから、”それだけ”の人員しか動かせないのも理解しています。」
高橋は眼鏡たちを睨むと、その形相に刑事たちは身じろいだ。
「ウチのことも理解していてくれているかはわかりませんけど、」
高橋は岡島と5センチほどの距離まで歩を進めて寄りながら、
「”全力で”、見つけてください。”今回も”、だとか抜かす前に。」
「生活安全課の雑用係が捜査本部長に随分な態度だなァ?」
今にも殴り合いになりそうな雰囲気に、若手の刑事たちはいよいよ固唾をのんで岡島を庇おうと構え始める。


「オイ!!!!」
今までにない大声で端を発したのは、岡島でも高橋でもなく、高橋宅から出てきた別の男だった。

「菜由美の捜査はちゃんとやってくれるんだろうな!!それともアレか!?私は財務省のブラックリストに入っているから、下級国民だから!?菜由美の捜査は形式上でしか行われないのか!?」
ポロシャツを着た荒れた肌の小柄な男は、息子を見ると怒りのボルテージを上げた。
「浩介!!?!?お前が居ないからこうなったんだぞ!?オカジマさんの言うことを聞けないというのか?!お前も警察官なら、菜由美を今すぐ見つけてきなさい!!!」
「お久しぶりです、お父さん。」
「今はそれどころでは――」
「奈由の時はすぐに諦めたのに、今回は大違いですね。」
「菜由美の方が、あなたにとっては大切なんですよね?お父さん。」


場が凍り付く、という言葉は、往々にして大げさな表現として笑い話の中で用いられがちなものだが、ここではまさしく、場が凍り付いたようにその場全員が動き、呼吸、会話を止めて、静寂がその場に訪れた。

高橋は涙ながらに父を睨みつけ、父はそれがなんだという顔でそれを見返す。
若手たちは、マンションの下層を見下ろして居ないふりをしていた。

雪解けは、永井の声によってもたらされた。
「マアマアマアマアマアマアマアマアマアマア!!」
高橋を渦中から引き離すようにして強引に引きずると、
「お父様、心中穏やかでない中、浩介クンが大変失礼しました!彼の面倒はしっかり見ておきますから、どうかご容赦ください!!」
「永井サン、でも!!」
「高橋」
永井は小声で囁いた。

「孔子曰く、”忠言は耳に逆らいて行いに利あり”だ。良いから聞け。」
メーターボックスに高橋を押し付けながら、永井は肩に手を置いて続ける。
「アイツらはお前さんの思ってるように、何にも”見えてねえ”し、”追いかけようともしない”だろうよ。ましてや足元のお前さんのゲロみてーに…
「”見ようともしない”だろう。」
若手刑事たちは岡島が高橋父と話している横で、こっそりとエイコスを吸って談笑している。
「――ッ!!!」
高橋の呼吸は次第に荒くなっていく。
「だが俺なりにお前さんの家を探したが、歯がゆいことに手がかりは俺も見つけられなかった。」
「だが、俺にはツテがある」
永井は高橋の顔を自分に向けさせ、目を見やった。
高橋は、涙ながらにすがるようにその目線を合わせる。
「だから、今は退いて、休むぞ。」
「俺もお前も、もうすぐで定時だ。」
「俺の言ってること、わかるな?」
高橋は逡巡の後、ようやく永井の真意を理解して、頷いた。
「よし」
「ゲロの掃除だけしとけ。俺は車を回してくる」

「…」
「高橋」
「はい」
「やれるな?」
高橋は涙を袖で拭い、わずかだがしっかりと、頷いた。


同時刻、元谷は食事を摂っていた。

卵と青ネギ、ハムの簡単なチャーハン。
隠し味は、マヨネーズを油に使うのと、砂糖を一つまみ入れるのがミソ。
エレクトリック・ヴーギーズの”ブレイク・マンドレイク”も、
一つまみくらいの音量で流しながら、バラエティ番組の録画を流す。
題目は、「グラビアアイドルびっしょり水着100番勝負!」
「今日もうまいなァ~」
元谷が外を見ると、街の光が鼓動するように輝いて見える。
人生は、素晴らしい。
五体満足で何気ない幸せを感じられて、生きていられるのが何よりもうれしい。
たまには退屈することもある。
そんなときは、
「これがいいんだよね~」
ギョウザのタレを少しと、黒コショウをたっぷり。
「ウン!この味変やっぱ好きだなァ」
「オッ!らむチャンだ!」
テレビには、元谷が好きなグラビアアイドル、北村らむがローションリンボーダンスをマイクロビキニで行うさまが映っている。
「デヘッ」
缶ビールを開ける。もちろん、”第三のやつ”だ。
喉に流し込むと、何とも言えないのど越しと苦みに唸る。
北村らむのリンボーダンスは、いよいよ佳境に迫り始める。
「やばッ…これ…」
無作為に元谷は股間をまさぐる。
こんなものでいいんだ、僕の幸せは―。
ベルトを外そうとした瞬間、玄関のベルが鳴った。
「やべ…ハーイ!!今行きます!!」
必死に下半身の血流を収めながら、玄関に向かって首を曲げると。
ゴキリ。
首の骨は左に曲がり、気味の悪い音を立てた。
途端に、元谷は嘔吐した。


グリーンリーフ、エンダイブ、エシャロットのサラダ、
EVオリーブオイルとバルサミコ酢のドレッシング、
ロマネスコと芽キャベツ、グアンチャーレのフジッリ、
ブールブランソースのスズキのポワレ、
ガーリックフォカッチャと、クレソンとトマトのナンプラースープ。
音楽はバッハのBWV855a、Eマイナー。
吐瀉物と配達員の死体は片づけた。
テーブルは上質なヘンプ生地のクロス。オフホワイト。
口に入れ、咀嚼する。
妥協は、許されない。
食事にも、タイミングにも。
小節ごとに動作をすすめる元谷の手は、まるで時計の針のように正確で。
外の景色は、変わらず拍動を続けていた。


岡島と父の、恨めしい二重奏は次第に小さくなっていく中、高橋はモップで吐瀉物を拭いていた。
若手刑事たちはいよいよスマホで協力プレイのゲームを遊び始め、高橋の惨めな様子を時折見下ろしてクスクスと笑っていた。
若手の中には、高橋の警察学校での同期もいた。
高橋は、ケロリーメイトの色をした吐瀉物を、
拭いて、バケツで洗って、拭いてを繰り返した。
自分の怨念を清算する儀式のように。

高橋の耳には、もう父たちの声は聞こえなくなっていた。
意識的に聞かないようにしていた。
これも、父からの圧制を受け続ける中で培ってきた、高橋の特技だった。

高橋の目には、決意が芽生え始めていた。

第二話 「吐瀉」 -終-

画像は「だいすけ」様の「地味顔男無限生成機」を使わせていただきました。

第3話はこちら⇩




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