アラフォー、アラフィフ。そして未知なる60代へ
デブ
仕事はしているけど、所詮はパート。夫からは、「パートのくせに、そこまで頑張らなくていいだろ」と言われてブチギレていました。
→冷静になれば、夫の言う通りです。
知的障害の息子は手がかかります。高い場所から落ちて頭を打ったら言葉を話し出すのではないかと半ば本気で考えていました。
←私は看護師資格を持っていますが、とてつもないアホでした。
ストレスで過食になり、気がつくと臨月と同じ体重になっていました。着る服が無くなり、弟のお古のデニムを履いていました。ゴムのスカートを履くと「3年目?」「妊婦?」と聞かれます。
友人に破れたスカートの修理を頼んだら、「あんた、どうなってるの❓このスカート、私の2人分だよ⁉️」「どこまで膨らむんだろう・・・」と心配されました。
化粧はしても、すっぴんと言われ、美容院は半年に1回しか行けないから、ゴムで縛ってる。幸か不幸かド近眼で、鏡もよく見えないから、なんとか悲観せずに生きていました。40の足音を聞きながら、じわじわと不安が増えていきます。
←「もう女は終わっている」
ガリ
息子の小学校入学の時に、さらにストレスが加わり、喘息が悪化。皮膚病の治療薬が合わずに食欲不振になってましたが、それを自覚することなく、キリキリ走り回っていました。ずっと体調が悪いと、それが当たり前になるのです。
←今日も昨日も同じような毎日だから。
ある日、友だちとスーパー銭湯に行き、「あんた気がついてないね。肋骨が浮いてるよ❗️」体重計に乗せられたら、7キロも痩せていました。
それから3か月後、さらに7キロ痩せて、職場でガン説が流れていたそうです。ついに母から病院受診するように促されました。でもどこも悪くなかったのです。
←治療もできない、どうすればいいのだ。
素行不良
14キロ痩せた私は、20代のころのサイズに戻っていました。当時は看護学校と仕事の両立で、バブルの恩恵も受けることはありませんでした。学校と仕事で毎日必死でした。オシャレもせず、恋愛もしていなかった。
「このまま死ねるか‼️このまま死んだら、アホだ‼️」
ピアスを開けて、化粧の本を買い込みメイクの勉強をしてみました。
コンタクトにしてみて、流行りの洋服を着てみた。もちろん洋服の勉強もしたよ。洋服なんて何が何だか分からないし、なんにも知らなかったから。
脱毛して、茶髪にして、ヒールを履いてみました。
鬱
でも基本的な生活は変えようもなく、そのギャップはあまりにも惨めで、やっぱり未来を考えることが出来ませんでした。どんどん家に帰りたくなくなって、できる限り仕事を詰め込み、出歩きました。
ところが、ある日、職場の人間関係のつまずきで、全てが失速しました。
鬱になり起き上がれなくなりました。仕事を辞めて、あれだけイヤだった家に閉じこもることになりました。
それでもなんとか動けるようになって、仕事を探したけど、やっぱり連戦連敗でした。 もうこの業界はダメだなぁとウンザリしていたら、知らない間に40歳を越えていました。ドタバタしてるうちに、私はあっさり40代に飛び込んでいたのです。
「なんだ、何にも変わってない。昨日も今日も私。30代も40代も私じゃないか」
ちょっと笑った。何を怖がっていたんだろう。
目が覚めた
41歳になって、夫が亡くなりました。
それまで家という小さな箱の中で悩み苦しみ、もがいていた私でした。
ある朝、頭の中にイメージが浮かびました。
自分を囲んでいた四方の壁が崩れました。
手足を伸ばして、天を仰いだら、太陽が輝いていました。
「生きていこう」
新しい人生が始まったような気がしました。それは子ども時代の自分に戻ったようでした。目先のことしか見ていなくて、長いこと忘れていましたが、
世の中は面白いことで満ちていたのです。そんな楽しいことを思い出すことが出来ました。
未知なる60代
20代 目標に向かって、脇目も振らず走り図づけていました。
30代 思い通りの人生でないと、もがいていました。
40代 「夫」と「職」を無くし、「時間」を得ました。
考える時間と本を読む時間、新しいことにチャレンジする時間が
多くの挫折、喪失から、私を再生させてくれたようです。
私は、こうして50代の「今」をいきています。
今日も文章を書いている私です。
この時間が未知なる60代の私を創るのでしょう。
さて「今日も生きよう」
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