noteさん、私たちのことも見てくれていますか
こんな真夜中に少し暗く、拘りの強い話をする。
こちらを読んで、泣きかけた。
もやもやが募っておかしくなりそうだった。
わけがわからないまま、筆を走らせ、どうしようもないのに書いていた。
どうか、この声が誰かに届きますように。
私は今日明日もnoteを書きます。
ですが、多分、このままだとnoteを書けなくなる日が来るかもしれません。
ある街の片隅のカフェ。カウンターがあって、マスターと気さくにおしゃべりのできるカフェ。
お客さん同士がおしゃべりできる、楽しいカフェ。
そこには人気者のマスターがいました。
聞き上手で優しい、たくさんの人が信頼を寄せているマスターです。
あるとき、マスターは常連のお客さんとお話をしていました。
すると、お店にベルが鳴って泣いているお客さんがやってしたのです。
マスターは、その人の人生を知りません。深入りしてはいけないと思い、その人には最低限の言葉をかけず、常連さんとのおしゃべりを再開しました。
泣いているお客さんは、居座り続けます。次の日も、次の日も、次の日も、そのまた次の日も、泣いているお客さんは喫茶店にやってきました。
時々なぜかとんでもないバカをして、やってきました。
マスターは、見守っていました。見守るだけにしたのです。一度だけまともだったので声をかけましたが、やはり、そのまま見守っていました。
泣いているお客さんは、一度くらいマスター=noteさんとお話をしたかった。助けて欲しかった。常連さんのようになりたかった。
でも、なり方がわからなかった。余計に涙は強くなった。泣くのに疲れたお客さん=私は、とうとうカフェに来なくなった。
noteさんは、何を思ったのだろう。
私は先月から久しぶりに喫茶店を訪れ、一度かなり長時間居座ったこと以外は、コーヒーを一杯飲んで帰ったり、友達や会いたい人との待ち合わせに使っている。
マスターは、「note」は、私をどう思っているのだろう。
人を上にも下にも見ないはずのnoteさんに、私は動物以下だとは思われてはいないだろうか。
私は常にnoteの劣等生ではないか不安だった。
「編集部のおすすめ」に載らないという悩みを元にガチで寝込んだ時も、noteは私に手を差し伸べてはくれなかったように思う。
バカにすらされてたんじゃないかと今も思う。声が聞こえないのは辛い。
わめきながらnoteを書いて泣きながら文章を削って吐く寸前までnoteを見つめていたあの日々は、「何真剣になってんの?」で片付いてしまったようで。
閉店後の喫茶店で、「あの客変だよね」と言われているようで、つらくて苦しい。喫茶店の有名人になることより、喫茶店を待ち合わせ場所として使う今も怖い。
あの経験を経て以来、冗談でも「noteで良かった」とは言えなくなった。
それほどに、サービスに人格があるにもかかわらず、サービスの人格をお客さん=ユーザーに示す機会が少ないのはやはりさみしい。怖い。辛い。
noteとユーザーが交流できる接点が少なすぎる。
編集部のおすすめと、東京近辺の限られた人しか参加できないセミナーが中心だ。
そう、noteさんと直接お話できる機会が本当に少ないのだ。
それに、やはり編集部のおすすめに「選ばれないれことが辛い理由に、「自分が助けたい人を切り捨てるあの人」が頻繁に入っているというのも解せないのだ。
私は自分をブスだと言ってしまう傷ついた人に「それやめて」なんて残酷なことを言う人になりたくない。私は自分をブスだと言ってしまう人に手を差し伸べたい。
でも、noteさんはそれを言う人を大切にして、私の主張なんて聞いてくれない気がする。さみしい。悲しい。やっぱり辛い。
真剣にnoteを書くのが苦しい。辛くてたまらない。
大きめのnoteを書くのがこわい理由はきっと、これなんだ。
あんなに優しくて人気者のnoteさんに、私は好かれていないかもしれない。
そう思ってしまうから辛くて辛くてたまらない。
noteさん、私のことも、平等に見てくれますか?
私たちも、この喫茶店のお客さんなんですが知っていますか?
noteさん、どうか私たちを見てください。
どうか、私たちを助けてください。