入試も、就職も、恋愛も全部失敗した。「拒絶され続けた人間」が覚悟を決めたこと。
ようは、「自分」というぶっ飛んだ思想を貫きたいんなら、生き様も貫き通せよっていうお話です。
仏教の四苦八苦の教えの中に、「愛別離苦」「 怨憎会苦」 「 求不得苦 」という苦しみがある。
愛別離苦(あいべつりく):愛するものと離ればなれになる苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく):憎い相手と出会わなければならない苦しみ。
求不得苦(ぐふとくく):ほしいものが得られない苦しみ。
ということだそうだ。
個人的には、「求不得苦」なんかはキリスト教の説く「求めよ! さらば与えられん」のスタンスの真逆を行くスタイル…^^;
このことからも、仏教の元々の教えが以下に現実を冷静に見つめた中に生まれた教えか、ということがよくわかる。
だって、お釈迦様は、死後の世界については何も語りはしなかったんだもの。
さて、今回の表題を“入試も、就職も、恋愛も全部失敗した。「拒絶され続けた人間」が覚悟を決めたこと”とした。
これは誰のことなのか。紛れもない自分のことである。
そうなのだ。自分の人生、ことごとく“選ばれない”人生なのだ。
何かをしたくて、本気で勉強して試験を受けても、高校入試失敗。就職も、失敗。内定もらったところもことごとくブラック企業。長く続けられない。
若い頃から女の子に人気なし。意中の彼女には、ことごとくふられ続けてきた。
プライベートでは、やりたい活動の多くは、企画の段階でストップがかかって実行されない。
良い提案をしても、採用してもらえない。
そのうち、「やん×2というやつは、イキがっている。生意気だ。ちょっとしめてやろう!」ということで、嫌がらせを受ける。アンチが湧く。
反発すると、相手はこれでもか、というくらいさらに強い手段で押さえ込もうとしてくる。
職場だと、「会いたくないから仕事行きたくない」というわけにはいかないから、毎日嫌いな相手にもいやいや顔をつきあわせなければならない。
これはもう、「地獄」ですヨ。
やん×2だから、相手にしてもらえないのだろうか。これが別のひとだったら、もっと器用に、うまくやれているのだろうか。
何故(なにゆえ)の、人生ハードモードなのか。
自分の人生なのに、おもうようにいかないのは、前世からの業ゆえなのだろうか・・・・・・。
いろいろ考えるようになった。
10代頃からこんな一生だったら、そらあ、自分の希望とか、意見とか、どうでもなってくるがな~。
実際20代は、完全に自暴自棄。「俺の人生積んだな。もうどうでもいいや」と思った時期もあった。
ところが、30代も半ばにさしかかった頃に、ある種開き直りに似たような感情が湧いてきた。
「このまま、否定否定拒絶拒絶され続けるなら、もういっそ開き直って我慢するの辞めよう。自分のしたいことだけをしよう。他人や社会の基準なんてものは、もうどうでも良いわ」と。
その決断に至る背景には、以下のような心理が働いている。
自分がしたいことを「否定される」 自分が一緒にいたい人に「拒絶される」 自分が入りたい組織に「入れてもらえない」 所属した組織に「追い出される」
これ、全て、「他人が自分に対してしている」あるいは「している」と思い込んでいることなのだ。その上で次のような疑問が湧いた。
「これって、自分の人生なのに、他人に主導権を握られている・・・・・・? 本当に、自分の人生こんなんでいいのか?」
そして、「他人に人生の主導権握られてれば、そりゃ、人生つまんなくなるわなー」
そうなのだ。高校入試も、採用試験・面接も、恋愛も、職場での環境も。
自分の力で、なんとかできるものではないのだ。 そこに全て「相手」がいる。
落とされる、拒絶される、受け入れてもらえない、ということは、それは自分が、相手の要求するレベルに達していなかったということ。
で、ここで世間一般の人なら、「お前が相手の要求するレベルに達すればいいだけじゃん」て、なるんだけど、やん×2は最終的にはそうならなかった。
なぜなら、まだ夢や希望を持っていた頃のやん×2は、その情熱を全て勉強に打ち込んでいたし、希望を通すために、あらゆるものを犠牲にして、それに向って努力していたから。 だからこそ、それが叶わなかったときの悲しみや挫折感、屈辱感といったら、尋常ではないわな。
「自分これだけやってきたのに、なんで・・・・・・!?」
実は、ここに人生の落とし穴があるような気がする。
自分が、目標のために努力してきても、どれだけ頑張ってきても、それを認めるのは他人。自分の努力なんざ、努力の矛先の相手や,社会からみれば、どうでもいいのだ。必要なのは、努力の矛先の相手に「自分がこいつを受け入れたいか」「一緒に仕事したいか」と思われること。相手の要求する基準に満たしているか満たしていないかだけ。それだけなのだ。
そして、相手は、自分ではない。どれだけいっても、自分は相手にはなれない。相手になれない以上、相手の視点は想像力を補うことによって理解できても、共感はできないだろうし、相手の全てを100%理解できるはずはない。逆もまたしかり。
ましてや、自分は超個性的な存在なのだから、相手が自分に求める理想が高いものであると同様、自分が追求する理想もこれまたとても高くて崇高なのだ。
両者が、その価値観を譲歩しない限り、その矛先は、決して交わることはないだろう。常に平行線だ。
このことに気がついてから、「もう相手目線で生きることをやめよう」と心から思うようになったのだ。
以来、やん×2は、社会の人が、何を思おうと、何を考えようと、
自分のしたいことだけを最優先に、していくことに決めた。
会いたいタイミングで、会いたい人と会い、好きな(感性のあう)人とやりたい仕事をし、食べたいものを食べ、みたいものを見る。
あ、もちろん、自分と関わってくれる相手も、自分と関わりたいときだけ、そうしてもらう。
自分の人生の時間も、相手の人生の時間も、無駄にしないスタンス。
そして、全部自分が好きで選んでやっているのだから、その責任は全部自分が取る。誰かのせいにしない。←ココ重要
それでも、誰かに迷惑かけているかもしれないけれど...。そのときは、ごめんなさい。
こう思うようになってから、自分の時間に対する意識や考え方がだいぶ変化したように思う。そして、現在、改めて自分の人生を自分で生きている気がする。
他にも、いろいろな変化を感じることが出来るようになったのだが、それはまたいずれ機会があったら、つぶやくことにしよう。
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