映画「ジョーカー」と「ヨコハマメリー」は同じ闇を抱えている
「問題作」
「模倣犯が出るのでは?」
「救いがなさ過ぎる話」
「異常な犯罪者が、その動機や言い訳を延々釈明するだけの内容」
などさんざん問題視されながらも、同時に主演するフォアキン・フェニックスの高い演技力や圧倒的に完成された映像美で、ベネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得した映画「ジョーカー」。
この映画に関する批評や口コミは、溢れるほど書かれています。
この映画をみて、【メリーさんとジョーカーは非常によく似ている】と感じました。
『白い孤影』の第3部や note の【「メリーさんは「本当は」なぜ立ちつづけていたのか、に関する考察】に書いた通り、彼女は自分をとりまく世界に絶望し、キレてしまったのだと思います。
『ジョーカー』の作中、主人公アーサー(後のジョーカー)は、ロバート・デニーロ演じる憧れの大物コメディアンの目に留まり、高揚します。浮上するチャンスを掴んだのです。
同様にお洒落好きでお芝居が好きなメリーさんは、疎開してきた谷崎潤一郎一家の知己を得ます。
暗闇に射した一条の光!
その後アーサーは、憧れの人物を撃ち殺すことで己を解放し、メリーさんは谷崎に触発された白いドレスを纏い出奔することで古い自分を脱ぎ捨てます。
メリーさんは、銃を持ち出して無差別に人を撃ち殺すことありませんでした。
しかし一種の世捨て人になったのです。
そしてあの出で立ちで、世界を撃ち続けたのではないでしょうか。
ジョーカーにもメリーさんにも、目指すべきゴールはありません。
ただ無軌道な自由があるだけです。
ジョーカーが見るからに異様であるのと同じように、彼女も異様です。
映画『ジョーカー』は観客を選ぶ映画ですが、ジョーカーに共感を覚える人は、メリーさんにも強い共感を覚えるはずです。