好きな人の好きな本
読書が趣味の彼氏。
私といるときと仕事の時以外は全部読書に費やしてるんじゃないかな、ってくらい部屋が本で溢れてる彼氏が「これを読んで欲しい」って一冊の本を渡してきた。
全然本を読まない私にとって彼氏がそういったことを言うのは初めてで、私は単純に好きな人の好きなものに興味があるから受け取った。っていうよりは、好きな人と好きな映画や本を共有するのがエモいみたいなそういった考えをよく聞くから自分もそれを感じてみたい、ってくらいの好奇心。
あとは何よりも、彼がすごく真剣に「この本は俺が高校生で読んだ時からずっと1番好きな本」とボロボロな本を渡してきたから、どうしようもなくその本に魅力を感じていた。
本なんて最後まで読む方が珍しいのに、早く読みたいと思うほどに輝いて見えた。
それでも受け取った時の最初の感想は、本ってこんなにボロボロになるんだ。といったもの。
私は漫画をよく読むけど全部透明のカバーをつけて背表紙を揃えて綺麗に保管している。それに読むなら最初から最後まで読みたいから、何十巻もあるそれを読み直すことはほとんどなく、新品同然のものばかりだ。
しかし彼が手渡したその本は表紙の一部が剥げていて、紙は日焼けして黄ばんできる。そして何ページかに皺が寄っていて、彼はそれを「俺の大好きなページ」と言った。何度も何度も手に汗握るほど読み込んだページなんだと思う。
そして中には彼がその本を買ったレシートが入っていて、レシートの裏にはその本を買いたいと思った理由が男子高校生らしい字で書かれてた。
それを「ずっと本を読んでるとマンネリするときがある。だからその度に買った理由を読み直して本の面白さに気づき直してるんだ」と教えてくれた。
なんかもう、まだ読んでいないのにこの時点で満足感が凄かった。
彼の無数に広がる世界の一部にまた1歩入れた気がして。
楽しい時間も美味しいという気持ちも、映画やアニメ、好きな音楽だって色々共有してきたけど、文字を共有するのは初めてで。
その本の目次の次のページを開くのに物凄くドキドキして、ワクワクした。
彼は何度も言ってた。
「本が1番コスパ良く世界を知ることが出来る」
本を読むことが彼にとって1番ワクワクして、新しいことを知ることが出来るのだと言う。
私はいつも「こんなに小さなものにぎっしりと文字が詰まってて、ひとつの物語があるのって凄いね」くらいの、空っぽなことを言ってた気がして恥ずかしい。
彼と別れたあとの電車でやっと目次の次のページを開くと、一気に世界に引き込まれた。
「世界から猫が消えたなら」
映画化していたからタイトルは知っていた。
それは世界から主人公にとってかけがえのないはずのものを、主人公の命と引き換えに消すお話で、最初から猫ではなく電話、映画、時計が消えていった。
その中で時間を好きな人と共有する愛おしさが何度も綴られていて、私は漠然とこの文字を何度も彼が読み直したのだと思うと堪らなく愛おしくなってしまった。
一度でもこの文を読んだということは、彼もこの文章に対して何かしらの考えを持ったのだろう。
私と同じ驚きや共感かもしれないし、彼には刺さらなくて批判的な意見かもしれない。
どっちでも良かった。この考えが彼の中の一部になっていて、それを私の世界にも入ってきたことがどうしようもなく嬉しかった。
そしてずっとこの考えが彼の中にはあって、まだ読んでない後ろのページも、彼の部屋に沢山ある本の数だけ、むしろそれ以上彼の世界には誰かの考えが詰まっていて、彼はそれだけ多くの世界に足を踏み入れてきたということを知り、気づいて愛おしさが止まらなかった。
その文字を目で追いかけるだけじゃ飽き足らず、指で撫でながら読み直してしまう。
全然続きに進めない。
その日の夜、私は彼と電話でそう感じたことを嬉嬉として伝えると彼はいつも通り優しい声で「よかった。うれしい。」とだけ言った。
いつもお喋りなのに、照れると言葉数が減ることを知ってる。きっと彼も同じ気持ちを共有したかったんだろう。
私は続きが気になる、素敵な本をありがとう、とだけ伝えてまたその世界に没頭する。
読み始めた時は電車だったからイヤホンから流していたアイドルソングも煩わしくなって、本を読む時間は無音を好んだ。
無音、といっても周りの雑音や話し声が耳に入っているはずなのに全然気にならない、というか聞こえなかった。
彼が愛おしく感じた文字を私も今読んでいることが堪らなくて、一緒にいないはずなのに彼と時間を共有している気がして、すごく温かい気持ちになって。むしろ出会う前、その本と出会った彼とすら時間を共有できた気がして今は彼の本を読む時間が凄く楽しい。
これから感想を伝えに行くけど、きっと笑って「まさか○○ちゃんがこんな短期間で全部読むと思わなかった」と笑うだろう。
でも私がこれだけ早く、ワクワクして読んだ理由も伝えちゃおうかな。
感想を言い合うのが楽しみだ。私は共感したあの部分、彼はどう思ったのかな。よく分からなかった部分、彼の解釈を聞くのが楽しみだ。
早く会いたい。
長々と書いたけど、私は好きな人が読んだ本を読む時間が堪らなく愛おしいことを知って、好きな人が読みなぞった文字を自分も読みなぞる時間が世界で一番尊くて愛おしいと分かった。
そしてこの世界を教えてくれた彼を一生手放したくないと思ったし、この短い人生であと何冊、彼が愛おしいと思った文字を読めるのか。私自身で愛おしい文字を見つけることが出来るのかな。