#056 多様性って、難しい
みなさまお疲れ様です!yanoです。
もう5月も佳境に入りましたね。すっかり暑くなってきて、衣替えが追いついてない私ですが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、前置きはこんなもんにして、今日はタイトル通り「多様性」について触れていきたいと思います。
わたしのこと
突然のカミングアウトですが、私には同性のパートナーがいます。note を投稿するようになって、初期の記事に少し出していたんですけど、自己紹介の記事には、何だか気持ちが憚らられてしまい、ここでは明言していませんでした。
気づけばアラサーで、パートナーとは人生の半分くらい一緒に生きています。ここ5〜6年は同じ家に住み、ほとんど家族として暮らしています。
LGBTQを尊重と言うけれど
3年ほど前だと思うんですけど、パートナーが突然倒れたことがありました。冬の夜のことです。
咄嗟に救急車を呼んだのですが、パートナーとの関係性を問われ、何と言っていいか悩み「同居人です」と濁した結果、救急車に同乗できませんでした。
救急隊員の方から「乗らないで!」と言われたわけではなく、「では、ここでお待ちください」と救急車後方にある扉を閉められてしまいました。
この時のショックはこれまでに経験したことがないのと同時に、あまりのことに言葉が出て来ませんでした。
幸い、当時近くに住んでいたパートナーのお母さんに来ていただくことで何とか対処できたんですけど、もう色んな気持ちが混ざって「何が尊重じゃ」と思ったのを覚えています。
多様性って?
さあ、多様性ってのは何なんでしょうか。
簡単に言えば「みんな違って当たり前」「みんな違ってみんないい」ってことなんだと思うんです。今やマジョリティとされる家族の形式では語れないことも多くなり、世界は思ったより複雑化しています。
LGBTQを語られる時にあわせて話題に上がるのは「結婚」です。
当人同士が幸せならいいじゃん!結婚なんてしなくていいじゃん!と言われるんですけど、それはその人の手札に「結婚する」というカードがあって、選べる状況だから言えるんですよね。
一方で、私たちにはそのカードがありません。選択肢にない状況では「選べない」から、カードがある状況で選べる人たちとは立場が違うんです。
多様性を認めよう、いろんな人を尊重しようと言うのであれば、みんなに平等に選択肢を与えてからモノを言ってほしいなと、いち当事者は思います。
それでも、世界は回るモノで
前述した救急車同乗できなかった事件から早3年ほど。たった3年ですが、世界は回り続け、いろんなことが変わってきています。
コロナの脅威に始まり、今や教科書でしか見たことがなかった戦争なんてワードも出てきました。私は転職をして、未経験の領域にいます。
多様性という言葉を聞く機会も多くなってきたなと思います。でも、私とパートナーは他人の枠のまま。おそらく、私たちが消えるその日まで、変わることはないんだろうと思います。この日本では。
一時は本気で海外移住か・・・?とも考えましたが、なかなか難しいです。
家族の形は人それぞれです。そして、思いも、考えもそれぞれ。それが「みんな違ってみんないい」の形です。
私は今のこの場所、時間の中でどれだけパートナーを大事にできるのか。
もう少し歳をとって、いろんなことが変わったら養子縁組をしてどちらかの苗字になってもいい。犬や猫を迎えて一緒に育ててもいい。
いわゆるマジョリティ(多数派)の方達の中でも、いろんなハードルによって、子どもを迎えられないパターンもあります。それでも一緒になるのは、自分が選んだ相手を、相手に選ばれた自分を、双方を一生大切にしていきたいと考えるから。
それと、私たちは一体何が違うんでしょう。
「多様性」という言葉をベールにして、私たちを隠すように一向に認めないのは、どうしてなんでしょう。
いつか "法" のもとで
こうやって note に今の気持ちを残すのは、いつか自分が生まれた日本で家族になることを認められたとき、"この時、私たちはこうやって生きていたよ" と振り返りたいからです。
10億円がほしい!とかそんなんんじゃないんです。ただ、目の前にいる大切な人と、日本に制定されている "法" のもとで、家族になりたいんです。
みんな違ってみんないい。
多様性は大事だ。それぞれを尊重しなくちゃ。
もうその言葉だけでは、耐えられないところまで来ているんです。
ただ、LGBTQ の人々の中でも、結婚を望まない人もいます。それは、各々の自由です。でも、それは総意ではありません。
繰り返しですが、「"結婚できる" というカードを持った状態で選ばない」のと、「"カードが元々ない" 状態で選べない」のとは、訳が違います。
いつか、いつの日か多様性のベールが良い意味で外れて、みんなが幸せになる日がきたらいいなと、心の底から思います。