耳がいいわけではないんだな、これが。
私は目の高さに電車が通る立地で18年間生活した。
それにうちには物心ついた頃からテレビがあったりなかったりした。
効かない大きなクーラーが一台あるだけで、「あり得ないくらい暑いだろ。」と子供心に思っていた。つまり夏場はおそらく常に窓が開いていたはずなのである。
でも私に電車の音は聞こえなかった。
きっと建物ごと揺れるくらいの距離だったに違いないのに、だ。
その癖、私は小さな頃から細かな生活音や気配の音が嫌いだ。生の食べ物が入り混じっているのスーパーマーケットの匂いが嫌いだ。人がどこを見ているかを見るのが嫌いだ。
歳を取る毎にそれらは良くなっていったが、大人達は、
「沙織は本当に耳がいい。鼻が利く。」と言って驚いていた。
私もつい最近までそう思っていたのだが、多分違うんだ。
良く利くんでなくて過敏なだけなのだ。
五感にて、感知しやすいカテゴリーと、感知しづらいどころかできないカテゴリーが微細に入り混じっているのだと思う。
だから頓馬な部分は見えも感じもしないくらい鈍感だったりする。
まず結構大きいのが「時間を潰す」と言う感覚がないことだ。
待ち合わせ時間になっても来ない友人に何度か連絡した後、コールバックがないので適当に入ったドトールでその友人を最大5時間待った事があるが、特に、待っていると感じていなかった。
夜中の仲間が泥酔しながら「翌朝みんなで名古屋城に行こう。」と言ったのを間に受けて今はなき丸栄のそばのスターバックスで4時間待った後、新幹線の時間が来たので帰った事など、むしろ良い思い出である。しかしさすがに真夜中のお友達の約束はそのほとんどが現実の約束ではないことはよくわかった。
おおらかなわけではなく、このあたり、時間の頓馬を持っているとしか思えない。最近は子供ができたので「ああ、もうこれくらいの時計の雰囲気の時はこれする時間か。」みたいな感じで時計を参考にするようになったのでまあ良くなった気もする。
匂いはかなり色々大丈夫になってきた。なにせ最近は寿司が食えるようになったのだ。あの強敵「寿司」である。
きつい酢飯がお櫃の木材やプラスチックケースの匂いを吸い込んで入り混じった「うおー」としか表現できない匂いと魚油の匂いのコンビネーション。寿司屋独特の湯呑みの匂い。
それら全て感じなくなり、まだ食べられるネタは少ないが、ただただ魚と酢飯と山葵のコンビネーションに舌が歓喜するようになった。
でも、問題は「音」なのだ。
これも子供ができて、広いフードコートが一番気を使わなくて便利だと感じるようになったりでかなり良くはなっている。以前ならば天井の高い独特の反響音と頭痛色の白色電球照明。それからまた入り混じった匂いやなんかが全部襲いかかってくるだけの場所だった。
今はもうあまり縁がないが、やたらに暗くDJブースがありながらちゃんとした料理を出す様ないわゆる「雰囲気がいいでしょう。」と言わんばかりのレストランも結構ダメだった。
だから「今度は是非お食事にでも行きましょうよ。」と言われると、社交辞令や親睦の為と気付かずに、最近まで「(なんでまたよりによってレストランをチョイスするんだ?!喫茶店じゃダメなのか?!)」と思っていた。
そう言えば、書いていて気がついたが、私は喫茶店が大好きだ。しかもチェーン店くらいが最高。
明らかに良くなっているとは言え、それがレストランとなるとどういうわけか食器の触れ合う音も、咀嚼音も、本当はとっても苦手なのだ。
その上、お相手がいて話しているとなると、アップアップになってしまうのだ。いつか食レポの仕事が来たらどどういう気持ちになるのか是非やってみたい。
本当は一人で、穴蔵に持ち帰って捕食する様に食事がしたい。
最近は毛虫の鳴き声の様に「いやよ!!ふん!」とばかり言って定点でご飯を食べなくなった娘は、それでもご飯粒だらけの頬っぺたで笑い、
「おいで!カムカム!」と、なかなか陽が落ちない真夏の夕方。
主に茜色の夕陽が溜まるベランダに私を呼び出し、
「一緒にたーびーよ!」と、自分のお皿を差し出す。
きっともう間も無く私は見るもの聞こえるものが変わるんだろうと思う夏である。
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