「文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。」
我らがpatoさんの新刊。いつもの楽しい記事とは違い、patoさんの22年のライター生活で培った文章術?の集大成である。
自分もとあるきっかけでnoteを書くようになって文章を書くことに苦労しているのでドンピシャなタイミングでの出版となり、速攻で予約した。
逆に言えばpatoさんの書籍でも自分でnote書いてなければ手に取らなかったかもしれない。
予約した旨を嬉々として報告したらこの扱い、こういうところが好きですわ。😂
ここまでで気になった方はこちらから購入可能です!
とりあえず読み切ったので気になった部分の感想を、、、という前に恒例のAIさんによるご紹介。
うんうん、いわゆるテクニックよりも大切なのは感情であると。書き手の感情が籠もっていない文章が相手に響くわけはない。
読む前から期待を抱かせるのがまた良いなと思った。いわゆるテクニックに終止するわけでもなく、黒沢くんとの物語が読み進めると進行していく構成も読み進めるのにストレスを感じない。
以下つらつらと本書に倣って感情を出す努力をしてみる。
冒頭でpatoさんは以下のことに言及されている。これを頭に入れつつ読み進めた。
第1章
「書けないという絶望」との付き合い方
文章にしろ会話にしろ、うまいことが言えれば相手に響くのかというとそうではない。その人の人となりによって受け取り側も素直に聞くことが出来るようになる、その意味ではここでも人間性が大切になってくる。
いわゆる引き出しの多さと配慮が必要と理解。多くの文章に触れておかないと書くことすらままならない。自分に足りないのはこれだよなと痛感している。
結局その文章を何のために書くのか、これを書き手自身が意識していなければただの日記やチラシの裏に書けばいいものになってしまう。
読み手としての自分を考えてみればそりゃそうだなと。独りよがりの文章は要らない。誰もおっさんの日記なんて読みたくないはず。
あれ?ワイのnoteもそうだよな、、、💦
それとも誰かの息抜きぐらいにはなってるってことでいいのかしら??
皆さんのようにためになることや役に立つことを書ける気はしないが、何も新発見とか難しいことを伝えることばかりが全てではない。凡人ができるのはむしろこれくらいだし、ワイも求めているのはこれくらいなのだからその意味では需要はある。
文章そのものをどうにかしようとするから書けないのであって、基本にはこの考えが「書けないという絶望」からの脱出にかかっているのかもしれないと理解。
第2章
「届かないという絶望」との付き合い方
いくら文章術に長けていたり、難しい表現ができたとしても読み手に届けようとする配慮がなければ読みやすい文章にはならない。これもまた人間性が問われる部分。
某課長の「読まれないnoteはゴミ以下」に通ずるものがある。やや脱線するが猫山課長の文章はこころにスッと入ってくる。決して小難しい表現などはなく、独りよがりでもない。
やはり良い文章を書く人の言うことは共通している。
見様見真似で他の人が書いた文章を真似て書いているが、こうしてテクニック的なものにも言及してくれるのは嬉しいところ。
前提となる情報、知識が一緒でないと笑いを共有できないということを理解する必要がある。これも配慮なんだよね。その前提となるものは受け手に伝わっているのかを意識すること、つまり客観性が必要。
まあ、ワイの書いている文章の客観性がないことったら💦
文章に限らずだけど自分のことは客観的に評価できない。だから自分以外の人に読んでもらいフィードバックを得ることが重要だよなと。
単なる描写では意味がない。自分の感情がそこになければ人には伝わるわけがない。客観性は保ちつつ感情を込めるというのはかなり高度なスキルじゃないかと。
SUNABACOのLP講座で習っている商品そのものの優位性だけではなく、それに対する思いや開発過程などを発信していかないと相手には届かない。プロセスエコノミーということか。
「届かないという絶望」からの脱出には客観性だけではなく感情を込めることが必要と理解。
第3章
「伝わらないという絶望」との付き合い方
読み手の行動に影響を与える文章を書くことができることほど嬉しいものはないと思う。苦労して書いた甲斐があるってもの。その意味では読んでもらえただけでは不十分なのかも💦
だからこそ良い文章を書く人に対しては何らかのリアクションをしたいと思うしやっている。
これだけ見るとどうしようも無い文章に思えるが、自身の感情を伝えたいとなると単なる物語の描写などは退屈でしか無い。
そこ??って思われされたら勝ちということかな??
ネットだとこのようなキャッチーさがないとそもそも埋もれてしまうということだよね。
連載ものとは異なり、書き上げてから伏線になりそうなものに気が付き前半を書き換えることが出来るというのは目からウロコだった。確かに自分の書いた文章において自分は神だから何でもありだな。
その人の性格や好みが出るということなのだろう。自分で書いている文章も決してマルチな芸風ではない。どうしても自分のキャラが見える文章になってしまう。
しかし、patoさんのように芸風を固定せずあらゆる文章を書くことが出来、必要に応じて混ぜ合わせることで文章に深みをもたせることが出来る!!
先が読めてしまうような文章より予想外のほうが楽しいに決まっている!
「伝わらないという絶望」からの脱出には読み手の心を掴み行動へ影響を与える文章である必要。キャッチーさや伏線、マルチな芸風etc…
やはり最後の伝えるが一番むずかしいのだと思う。
第4章
伝わらないことに対して他者が悪いのではなく、自身の表現、考えがおかしいと考える。それを続けることで誰かに聞き入れやすいものに変化していく。他責ではない試行錯誤を継続することでより伝わる文章に変化していく。果たして自分にそれが出来ているのか??
最後に
あとがきでpatoさんは
patoさんが意図しているかどうかは別にして、文章を書くこと、絵を描くこと、音楽を演奏すること、人と会話すること、仕事することなどなど。なんでもそうだが諦めずに試行錯誤し積み重ねること、継続すること、そして最後には人間力が問われるという学びになった。
人間が活動した結果なのだから当然なのだけれども。
うまく表現できんのがワイの限界やな、、、
最後になるが、本書とこの猫山課長のnoteを読むと文章を書くことに少しは抵抗がなくなるのではと感じた。
#実際自分はそうだった。
特に文章書くことが多い人は読んだほうがいいなと。特に書くことが好きでないのにやろうとしてる人とかね。
やっぱりというかいつも通り講座中のXのポストみたいになってしまったな。。。試行錯誤が足りない証拠。こうしてアプトプットすることでそのダメさがわかる、続けようと思う。
ここまでお読みいただきありがとうございました~!
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