「努力」を脱いだ自分が、本当の自分だった。
あと10分我慢して登れば山頂だと言われてひぃひぃ登ったのに、10分たっても頂上は現れなかった。もう少しだよ、本当はここからあと10分だから……。その言葉に騙されながら、40年も山を登り続けてきた。ここまで登ってきたついでにもう少しのぼってみることもできる。必死に登り続ければ何か見えてくるかもしれない。でももう疲れた。気力も体力も底をついた。チクショウ、もう限界だ。
物心ついてから、努力は惜しまなかった。
私は努力以外に誇れることがなかった。高校生くらいまでは、努力をすればある程度のことは思い通りになった。運動は苦手だったけれど、それは努力していないから仕方ないと割り切っていた。
努力はいつだって褒められる。頑張って、壁にぶち当たりながらもがく姿を周りの人は認めてくれた。
大学生になって、自分と同じような趣味や考えの人と過ごすようになると、努力では到底カバーしきれないような差を感じるようになった。
今まで努力を信じてきた私には酷だったが、それでも「いつもは何も考えてなさそうなのに、やるときはやる人」を頑張って演じた。努力は別に誇れるものではないことに薄々気づきはじめて、必死になっている自分が恥ずかしかったから。演じきれていなかったかもしれないけれど。
私はそのまま社会人になった。社会に出たら、当たり前にもっと努力が評価されなくなった。なのに頑張り続けて、心が追いつかなくなった。
そんなとき、ふと立ち寄った本屋でこの本の表紙が目に入った。
「どうせ頑張らないで気ままなスローライフを送ろうよみたいな話だろうな」と思いながらも、そのときの私は、何かに助けてもらいたくて。気がつけば家に帰って無我夢中で読んでいた。
正直、目を塞ぎたくなった。初っ端から「努力は必ずしも報われない」だとか、「一つの選択肢にすがるのは執着」みたいなことが書かれていて。けれど、失敗が怖くて、認められなくなるのが怖くて、誇れるところがなくなるのが怖くて…どうして自分が囚われるように頑張っていたのかを答え合わせするように、でも決して私を責めないように、この本が「頑張らない」という選択肢を私に与えてくれた。
これを読んだのは何ヶ月も前だけれど、今も私の心を支えてくれるのは「内面はパンツに表れる」という言葉。
誰かにこう見られたい、なめられたくない。だから努力をしていた。内面の自分には何一つ気遣っていなかった。私はみすぼらしいパンツを履いたまま、外面だけ取り繕っていた。
自分の内側に目を向けて磨いていくことの大切さを、この本が教えてくれたし、今でも私の道しるべになっている。
どれだけ頑張っても、うまくいかない現実を受け止め、大きな期待はせず、何も纏っていない自分で生きる。たまに訪れる幸せを心の底から喜べる。それが努力という武器や防具では手に入れることのできない、本当の強さで、逞しさだと思う。
少なからず、私はその強さや逞しさを持っているはず。
この本を読んでから、頑張ることをやめて、少しずつ気づき始めてきたこと。
もっと身軽に、私はこの人生を楽しみたい。
「あやうく一生懸命生きるところだった」