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82年生まれ、キム・ジヨンと79年生まれの私。

奇しくも誕生日の今日見た映画。ずっと頭の中を揺さぶられっぱなしだった。(映画の内容に触れる記述があります)

公開以来インターネットのレビューで気になってはいたが誕生日をどう過ごそうと考えて、久しぶりにパートナーと映画を見に行った。彼は予告を見て『君みたいな映画だね』ととくに拒否反応はなかったから。女性を取り巻く問題に触れるコンテンツを男性に見せる時私はいつも少し用心する。相手の反応自体に過敏になる、これ自体が今の日本におけるフェミニズムのリアルだ。拒否されてしまったら、フィクションだと笑われたら、遠い外国の話だと自分には関係ないと思われたら?私と彼の間に新しい溝が生まれる。気づかなかった距離を認めざるを得なくなってしまう。知って欲しい、わかって欲しい、でも怖い。まずそれ自体が試金石だ。

映画はとても良かった。少しきれいに作りすぎている気はしたが露悪的になりすぎることやあからさまな悪役もいなかった。最初から義実家での嫁の負担はあるあるで胃が痛くなったが、孫の催促や結婚を勧められる、男性がずっと座っていて女性が人をもてなしたり料理を取り分けたりするシーンは大勢の日本人にも思い当たるだろう。

子連れでのお出かけ、特に母子では世間が厳しい目で見ること、専業主婦や子育てしている女性に向かって未婚者(もしくは子供のいない男女)が迷惑がる場面では胸が痛くなった。

そしてトイレの盗撮や痴漢(ストーカー)、母親が夢を諦めて結婚し主婦になったこと、主人公を抱きしめて泣く場面では涙が止まらなかった。

ただ、私の涙には二つの意味があって、主人公への共感と仄暗い羨望だ。

彼女は仕事を諦めて家庭に入ったけど、職場の元先輩や女性上司から連絡をとっていて復職の相談もできていた。夫は少し鈍いけれど、主人公を最優先にしてくれていた。両親は世代から男子優先できたけれど母親が泣きながら自己を犠牲にして味方になってくれようとした。

ずるい。

私には、ない。昔の職場で連絡を続けている人も、きちんと向き合って病院に連れて行ってくれる夫も、自分の生活より子供を気にかけてくれる親も。

全て今までの選択の結果かもしれないけどどうして私には何もないの。

そう思い始めたら涙が止まらなくなったけどティッシュもハンカチも忘れた。カバンに入っていたのは除菌アルコールティッシュだけだった。なのでそのままバレないようにと思いながらポタポタ泣いて、そのままマスクに染みていった。

そして印象的だったのが平日昼間にしては結構男性客が多くコロナで咳が一つ空きの配列のため隣の若いビジネスマンがよく見えた。彼は私がうーん、と思ったシーンで何度か笑っていた。これが『見える世界が違う』というやつか。女性同士の自嘲めいた皮肉とか、卒業前日就職が決まらない主人公に父親が説教していたのに内定連絡が来て食事風景がドタバタになるのは彼には笑いどころだったけど私にはコメディには映らなかった。

終盤、ジヨンは自分の気持ちを言葉に表すことで少しずつ心の平穏を取り戻していく。彼女を取り巻く環境は決して特別辛辣なものではなく、私たちの世代に当てはまる『あたりまえ』の苦しさだ。今現在もこの映画の題材の韓国、日本や女性の置かれてる境遇はあたりまえにハードで、彼女が特別瀬戸際だったわけではなかった。それでも心を病む可能性はあたりまえにある。(女性に限らないが)それだけ精神の病の境界線は普通のことで、知らない人が、知らないということが未知か既知か、ただそれだけだと思う。

この世界にいるたくさんのキム・ジヨン達の一人でもある、79年生まれの私も自分のために言葉に残したくなった。彼女には家族がいた、そして私にも家族がいる。離婚もしたし実親とは話さない。でも子供とは仲良しだし、彼とはケンカもするけど私に寄り添ってくれる。女性として生きていく上で喪失感は埋まらないけど、これからもなんとか生きていける、そんな気持ちになった映画だった。

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