なぜあなたは尾崎世界観の小説を読むのか
たとえばコンビニのコピー機がお釣りを吐き出したとき、その勢いがあんまりに強くて、10円玉が飛び出して床を転がっていく、そんな瞬間に私は、世界から弾き出されたような、もう帰る場所があたりから失われてしまったような、そんな悲しい気分になる。
こういった感覚は、たぶん私の中の「子供性」のおかげで訪れる感覚だと思う。端的に言い換えてしまえば「感受性が強い」「繊細」「HSP気質」ということだ(だからといって天賦の才があるというわけではない)。
多かれ少なかれ子供時代には誰もがこういった感覚を持っていて、社会の荒波で擦れていくうちに、すこしずつ忘れていってしまう。どういうわけかそれを失わずに後生大事に抱え続けた者だけが、コインが転がっていくといった日常の些末なできごとにいちいち感じ入るわけだ。
そういった人種のなかで、音楽的才能がある者はミュージシャンになり、文才があれば作家になる。私のように特に才覚がなかった者は、ちょっと生きづらい人間として生涯を消費していくことになる。
たた別段それは必ずしもつらいだけってわけでもなく、たとえば雨模様の空を見て「あーもう今すぐにでも泣きそうな空じゃんか」と思えることは楽しいし、生活のいろどりになる。だから「子供性」が過剰に残った大人も悪いものではない。
すぐれたアーティストはそんな子供性を濃厚に宿しているものだ。尾崎世界観さんの書く歌詞と文章、そこに表れる細緻な着眼点にも、子供性がにじみ出ている。さながら「何を見ても何かを思い出す」と言ったヘミングウェイだ、尾崎さんは何かを見るにつけその子供性でもって何かを感じ、そして感慨を作品として出力できる。
母影が子供視点の物語と知ったとき、上から言いたいわけではないけれど、尾崎さんにすごく合っていると思った。読み進めてもそれは変わらなかった。あまたのアーティストの中でも群を抜いて敏感な尾崎さんの感性を、子供の語り手は増幅させてくれていると思った。
文藝春秋掲載の選評で何人かの詮衡委員が触れたのが、「子供視点で書いている大人の姿が透けて見える」ということだった。それを読んで読者のこっちまで落ち込んでしまったが、言わんとしていることは解る。確かに読んでいて作者の姿がちらつくことはあった。でもそれって瑕疵になのだろうか?
私の中で、尾崎さんが書く子供は「子供のまねっこ」ではない。尾崎さんの中に子供性があるのだし、それはつまり尾崎さんの中に(リトル本田とは異なった意味での)リトル尾崎がいるということで、もっと言えば、尾崎さんはある意味で純然たる子供なのだ。だから、子供の作文を模したわけではなく、自分自身を活写したというほうが近いように思う。
なんとなく思い出すのは川上未映子さんの乳と卵で、(私はあの作品が大好きだ、)あの場合、大人視点と子供視点がクロスしたり、日記の体裁を取っていたり、そういった技巧が、子供視点のリアリティを保つことに資していた。もちろんそのリアリティもとても好きだ。でも、母影もまた別個のベクトルでリアリティを持っていると思う。
ただ、子供を語り手とする作品のハードルが否応なく上げられてしまうのは解る。「大人のエゴをぶつけている」と評されてしまうのも、頷けなくもない。
そんな厳しい周囲の視線の中で、字慰→母影と、「子供視点」かつ「文学的流れを汲んだストーリー構成」の作品に果敢にアタックしたことは、とても大きな産物をもたらすと思う。第三作が単純にものすごく愉しみだ。尾崎さんの最大球速はどんどんめきめき上がっていて、種々の変化球もマスターしてきているのだし、あとはコースを微調整するだけなんだと思う。
ハワイが危機になったらハワイキキなんですかね?