なぜあなたは家族と解り合えないのか
両親が離婚寸前となっている。別にそれはどうでもいいのだが、父のほうは離散を防ごうと躍起になっているらしい。
父がある日、父と姉と私のグループラインに、悩みを吐露した。「何も迷惑かけてないのに、(母は)何が不満なんだよ」という内容を。
父親が子供に不安や不満を打ち明けることに、なんら問題はない。よその父親がよその子供に不安や不満を打ち明けていた場合、私はその家族を、「風通しのいい、いい家族」と判断するはずだ。しかし、自分の家族となるとよく解らない。私は父の悩みを聞いてやりたい気がしたが、同時に、父を鬱陶しいと感じていたかもしれないな?
そういえば、父と姉と私、というそのグループラインを二年前、突然作ったのも父だった。そのとき私はどう感じたのだったか? 大して家庭に干渉してこなかった父、彼が子供に歩み寄ってきたのを嬉しく思ったか? それとも気持ち悪いと感じたのだったか、よく覚えていないが両方か?
いずれにしろ、両親が離婚しようがしまいが、まったくどうでもよかった。しかしなにか返信する必要があった。なぜなら、グループの誰かが発言した場合、グループの誰かが返信をすることが一般的であるため。私は、「母はこう思ってるだろう、だからこういう行動に出たんだろう、それを父はこういうふうに捉えているだろう、でも別な捉えかたもできるだろう」と、見解を、長文で返した。私には見解を長文で返す傾向がある。思いついたことをすべて放出したくなる傾向があり、これは気持ち悪い傾向であるはずだ。
しばらくして父から返信があった。「なるほど」。それだけだ。私が大量の見解を述べたところで、同じ量の見解を父が返してくれるわけではない。いつものことだった。打っても響かないから、父と話すことが嫌になる。それでも私は大量の見解を示すことをやめない。そんな私のことを私は、優しい子供だ、と捉えているかもしれない。
「なるほど」、そのひとことだけとはいえ、父のメランコリーは落ち着いたようにも思われた。なぜなら、父からのラインが途絶えたため。これにより、父とのやりとりには終止符が打たれた、かのように思われたが、そのとき姉、それまでなりゆきを見守っていた新婚の姉が言った。「2人は相手のことを第一に考えてない」と言い出したのだった。「相手のことを第一に考えるのが大切、これがわたしは解ったね、でも2人は解らなかったんだね。わたしは2人を反面教師にして生きていくわ笑」
新婚夫婦というのは、幸福であることが多いと思われる。なぜなら、好きな相手と一緒にいられるし、特別感もあるため。つまり姉も幸福な状態にいるんだろう。そして、いまある幸福な状態が崩れるなどとは思っていないだろうし、自分のいまの行動はすべて妥当であると、夫婦生活を続ける上で間違った手など打っていないと、信じているかもしれない。その視座から見渡せば、確かに両親の状態は、反面教師にするべきもの、でしかないかもな?
どうであれ、姉が両親をどう捉えていようが、まったくどうでもよいはずだった。しかし私の胸にあったのはなんだ?
私が往々にして長文のラインを返すのはどうしてだろう? それはやはりどこか、相手に期待しているからではないだろうか? 父がひとことの返信しかしないにしても、それでもなにか伝わると。エゴだ、エゴだけども、それでもひとひらでも、解り合えるのではないかと。解り合うことだけがすべてではないと解りながらも。
私は長文を打った。「反面教師なんて言われたら寂しい」大した文章ではないが、一時間を要しながら。「確かに母は頑固だ、父は大事な局面で逃げる、けれど、それを肯定していくことはできないだろうか」と、我ながらうざったいと思いながら。
いまある関係を無難に続けたいなら、こんなことは打たないほうがいい。しかし私はひとひらでも解り合いたかった。結果的に解り合えなかったとしても、話し合うくらいは。
しかし姉からの返信は、
「そういう考えかたもあるんだね。取り入れられることは取り入れるね!」
そのやりとりを見ていた父の反応は、スタンプひとつだけだった。私は退会した。もう、家族と話すことなどなにひとつなかった。