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25年ぶりのピアノ

ピアノを練習している。19才の時にレッスンをやめて以来だ。理由なく思い立ち、家事の合間に練習している。



1年前のわたしが見たら、どういう風の吹き回し?というだろう。ああ、絵が行き詰ってるんだね、と笑うだろう。

確かに。行き詰っている。こんなもの描いてどうする、駄作だ、駄作だ、と、鬼のように踏み荒らしたくなる。



毎日こころ穏やかに暮らす難しさ。自分のなかに穏やかさをどう探せば良い?

ピアノを弾いても、あれは駄作だという気持ちは消えない。

そもそもわたしのピアノは何にもならない。絵だってそうだ。先々何かになれるわけでもない。




でも、今この瞬間、別れの曲を弾くとき。22歳のショパンが自分の隣に座りこみ、思いの丈を熱く語りだす。なんて鮮やかな男の子だろう。

ついでに19才のわたしもやってくる。とっくにいない、若い2人に挟まれる。



ふと、さっきまでお喋りだった彼が目をつむった。始まったね、と19才のわたしと目配せする。ふたりと一緒に鍵盤をなぞる。追いかけようともつれる指をふたりが支える。

19才のときは好きじゃなかった曲も、なぜか愛おしい。



とうに世を去った人よ、この世はそれでも美しいのでしょうか?

あの燃える夕焼けのように。1日が終わる前に、誰もに与えられる恩寵のように。

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山積みの洗濯物を背に、腕が軋むほど、反復練習をする。

たまに、鍵盤をわずかに捉えられたような気がする。耳に聞こえる音と心の中の音とが重なるような、気がする。気のせいかもしれないが。





近いうちにもう一度、絵を取り出してみようか。いいんじゃない、と誰かがわらうような、気がする。