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文章に顔が見えない

自分の書く文章は実態をともなわないというか、頭の中で生まれて、頭の中でしか生活できない文章ばかりだなと思う。それ以上でも以下でもない感じがする。

なんかこう思考が身体や意味の外へ飛び出してこない。抽象から具体になるイメージがつかない。自己開示が苦手というのもあるけど、なんか全然自分という人間が見えてこないなと思う。

自分は小説を読むとき、名前とセリフからその人物の顔や人柄をイメージしてる。ビジュアルシンカーではないけど、言語だけで理解するのは難しいから視覚で補填してる感じ。エクトプラズムみたいな。

でも自分の文章を読み返してみても、どうしても誰の顔も浮かんでこない。自分の顔を知ってるのに輪郭さえも浮かんでこない。雲みたいになんにも掴めない。もしも雲に手が届いてもどうせ掴めない。あの青春みたい。ゆらぎの中に生きてるのかな。

雲は、一定範囲における大量の水分子の衝突により法則性をもって安定したカタチを保っていて。自分の思考ひとつひとつも雲と同じで、思考の方程式と外部の関数によって導き出された極めて物理的な現象にすぎない気がしてきた。

飛行機雲のように、低温高湿の空気の中を飛行機がしゅーんと駆け抜けたら、その痕跡が雲として記録される感じで。

理系じゃないから説明が難しい。ゆらぎの定理とかアインシュタインの物理方程式とか、きっと数千文字の説明がいる。そもそも雲の成り立ちって本当に古典物理学で説明できるのかな?

ざっくり言うと、こういう状況で、あいつはこう思うだろうなと全て説明がつく感じ。

夏に入道雲が立ち昇るのも、秋に熱帯低気圧が来風するのも、冬に吐息が白くなるのも、ぜんぶ物理学で説明される。そういえば、飛行機雲も、白い吐息も同じ原理らしい。CO2を多く含んだ温かい空気が影響するとかどうとか。これはロマンがあって好き。

そうなんだったら、むしろ、Dr.ハインリッヒさんじゃないけど、「あの人、雲のような人だったな」って思われたい。(漫才『風、新約聖書』)


自分の色がある文章を書く人に憧れる。分かりやすいのだとダ・ヴィンチ・恐山さんとか太宰治とか。

自分がフォローしている方もすべて顔が浮かぶ。勝手に顔を造形してしまって申し訳ないけれど。勝手に読んだ本の主人公にあてはめてみたりもする。

阿川せんりさんの小説『厭世マニュアル』の、くにさきみさと、に似てる人とか、村田沙耶香さんの『地球星人』に出てくる名前は思い出せないけど、主人公と共に惑星をつくる人とか。


日記のつもりで始めたnoteにスキを付けてくれる人がいて本当に嬉しい。でも、読んでくれた人の中に、自分の顔が浮かんだ人はいないだろうなと思ったり。それに自分みたいなキャラを見たことない。独特とかじゃなく特徴が掴めないから。

感嘆符を付けない限り、無表情、無感情な文章。目や口をちゃんと筋肉で動かさないと無表情になるのは文章も同じかも。

記憶に定着しない曖昧な概念体

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