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雑記:孤独、放哉、偏見:2024.11.17

・相対的な幸福ではなく絶対的な幸福を望んでいるから、それを邪魔するものは、うるさい、って切り捨てて生活するって決めた。



・誰かと一緒に行きたいところや観たい映画はあるけど、一緒に行く人がいないから寂しい。

山に行こうとか花を見に行こうとか、本屋に行こうとか映画館に行こうとか。一緒にどこかへ向かうってなる人がいない。すこし寂しい。

新刊を書店に買いに行きたい。



・あんまり難しい言葉を使われると、自分わかんないですよ、と表情する他なくて悲しい。自分が足りない所為なんだけどね。日記も小説も会話も。

それなのに自分が日記を書くとき、難しい言葉というか表現? 自分以外の人が読むには不親切な言い回しばかりを使ってしまってる。

何かを思ったり考えたりしたとき、それに、さっと、適当な言葉を当てはめられるほどの語彙力が無いから、自分の知ってる何かに例えたり、それに近いものを書くしかない。 

いっそ詩的と言われるまで感性や言葉を磨くことができたらいいけど難しいだろうな。



・中原中也さんの作品を青空文庫で読んでみてたけど、電子だと全然いまいち頭に入ってこなくて紙の本を買った。文ストが表紙をしている作品集。

めっちゃ線を引いたり思ったことを書いたり、ざっと絵を描いたりして読んでる。すごく楽しい。ようやく「生きる」をテーマした章を読み終えたけど、心が気持ち大きくなった気がする。論理的なようで感情的で、そのあわいにある春に似た光が心地いい。

光は粒子であり波でもある。それを自分の目で確認したような気持ち。光の粉、光の針、光の液。光は様々な形をしてるんだなって。なので中原中也さんは光。

『逝く夏の歌』特に好きだった。



・解説を読むのは無粋だと思ってるけど、あまりに分からなくて検索してみたら、中原中也の過去と照らし合わせると……と回答が出てきて少し嫌だった。

著者の過去や時代背景は重要なことだけど、それを知らないと解読できない作品って価値あるの? 

中原さんの詩に対してではなく、解説者の頭の中にある詩への理解に対して言ってる。というのも、それが知識ありきの解説だったから、この解説者は中原中也さんの詩を読みたいんじゃなくて、知識や軸を当てはめて意味をつくりたいだけでは?って、胃がムカムカするのを感じた。

俳句だけど「咳をしても一人」という名句に関しては、尾崎放哉さんが実際のところ孤独じゃなかったとしても、それを知らなくても無気力な孤独は伝わってくる。

布団の中の咳、両手の中の咳、散歩中の咳。その場所・状況は様々だろうけど、空間にポツっんと点在した泡沫の孤独とその残像がイメージできる。この句は花火のようだなって思った。

分からなくてネットで調べた詩もイメージが難しかっただけで、素敵だなって感じてた。でも漠然の中にある美麗も好きだけど、これは知らないからこその光かもしれないから。その粉末状の無知は何なのか気になって調べたら、ちょっと嫌な考察にぶつかった。

作者の過去や性格を前提として、作品としての意味や価値を判断するのは、作者にとって失礼だし傲慢だと思う。作品の裏や、地面の下にある作者を墓暴きするような手癖の悪さ。



・「咳をしても一人」って改めて素敵な句だなぁって思う。でも読み方が分からなくて。

 咳を
 しても
 一人

こんな感じで3・3・3のメロディで読むと、枯れ葉がひらひらと地面までの幾許もない猶予時間を、めいっぱいに風を集めて落下しているイメージになる。ひらり、はらり、ひらり。でも区切りを変えて、

 咳をして
 も
 一人

そんな感じで5・1・3のメロディで読むと、何かが、ぷつんと途切れたような、ぽつんと湧いたような、たっんと咳をしたようなイメージがずっと強くなる。

初句が5文字で満たされているのに対して、二句が1音しかない字余り6になる。すると途端に「も」が一人になった。この空白の6文字が、孤独すらも孤独を抱いてしまうくらいに、一人の存在をわざとらしく際立たせてると思う。

「も」は咳であって、「も」は孤独であって、「も」は作者自身だと思う。

1文字でいる「も」に季節感のない疾風が吹き付けるような孤独を感じる。これは乗客が自分一人だけになった鈍行列車みたいだなって思った。

333と513で風と、風をともなう速度が違う。空の表情や気持ちは、結局のところ風任せだから、空に気分を右往左往させる自分は、間接的に風にコントロールされていたのかも。

「咳をしても一人」の感想はここじゃ書ききれないな。尾崎放哉ではないから、淀みなく溢れる気持ちを簡潔的に9文字に収められない。



・交通系のICカードは本人じゃなくても利用できるかつ現金ではない点で匿名性が高いので反社会的勢力でも利用できる電子マネーだと聞いて

ふつうのスーパーやコンビニで交通系を使ってる人を見かけるとちょっと胸の奥でドキッとする。

もしかしたら反社なんじゃないか…?

バーコード決済は電話番号などの個人情報が必要で本人確認もあるからセキュリティも高いけど、交通系って1回作ってしまえば…作らなくても盗めば…と考えるとちょっと怖いな。

あなたがあの日落としたことも忘れている交通系は、どこかのヤクザによって利用されていた……なんてこともあるかも。直接的な被害は無いけどちょっと嫌なやつ。

反社の人が目の前に居たとして何かが起きるわけでもないけどね



・偏見なんだけど、確かに交通系を日常的な決済手段にしている人を想像できない。それとGoogleマップでレビューを書いている人も想像できない。誰が書いているんだろう。

「このお店、良かったなぁ」と「Googleにレビュー書こう」の間にある思考のプロセスが分っかんない。

いつか友だちと行ったカフェで「よかったらレビューをお願いできませんか?」と店員さんに言われてしたことがある。でも、そういう動機がないと書かないもんな。

そのお店は地域ぐるみというか、地域の活性化のためでもある新しいカフェだったから、これからの運営やマーケのために評価が必要みたいでお願いされた。実際にめっちゃ良かったからレビューしたけど。

だから一度自分で経験したからこそ、そんな理由もなく自主的に積極的にGoogleマップにレビューをする人の動機は本当に何、何故!?って強く思う。

そんな謎の人物たちによって集合形成された評価を疑いもせず信頼して、自分が向かう場所を判断・決定していることがとても不気味に思えてきた。



・ついに編み物をはじめた。最初だからダイソーのでいいかな。将来的には手芸屋さんで、あくまでも日常のような顔で店内を物色したい。

基本の編み方のくさり編みと、こま編みを覚えた。まだ動画を観ながらじゃないとできないけど楽しい。

いずれ、近い将来、猫を編む。


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