雑文:死にたさ生きたさ
精進料理って肉や魚などの動物性タンパク質を摂取しないことで、修行の妨げになってしまう性欲を抑えようとする、ただ単に元気が出ない料理で、そう考えると、なんか、しょうもなく思えてきた。信仰の精神で抑えるのではなく、食事で抑えてたんだ…
どうでもいい話だけれど、なんかくだらなくて、どうにも可笑しくなった。食事が大切なのは分かるけど、すごく原始的な方法だなって。栄養とメンタルの関連性は実体験としても散々知ってることで。だとしたら性欲だけじゃなく、いわゆる悟りのような無の境地って、ただ栄養失調で何も考えられない終わりの人間かもしれなくて。確かニルヴァーナって悟りの境地って意味で、ロウソクの火を吹き消すように亡くなられた釈迦を表してるはずだけど。それ、餓死じゃん。衰弱してるよ。本当に無の世界に逝ってるじゃん。ちゃんとご飯を食べて生きなよ。
もしかすると御釈迦様って、メンタル激落ちで食欲不振になって心身の体調も崩した、すべてをキャンセルする、人生キャンセル界隈の始祖なのかも。抑鬱リアリズム理論もあるし、抑鬱や栄養失調の先に見た色こそ、悟りの境地かもね。般若心経の最後、羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 (素晴らしい世界へ行きましょう)って呪文は希死念慮だったのかな。だとしたら日々つきまとう憂鬱な気分は修行の一環なのかも。なんか強制参加させられてた。それは嫌だな。死にたくはない。
でもご飯キャンセル界隈は本当にやばいと思うけどなぁ。ゆっくりとした自殺だもんね。ちゃんとご飯を食べていこうよ。無責任だけど死なないで。
五蘊皆空。自分は、あらゆる感覚が途絶した世界は恐ろしいなって思う。もしかすると、数千年の仏教の思想は、「死にたい」と「生きたい」がきれいに織り交ぜられた、諦めのような祈りだったのかも。
精神疾患のある人が出家したり、駆け込み寺をしたりするように、仏教って本当にそうかも。まったく勝手な妄想だけど。現世からの脱出。
諸行無常とか国破れて山河ありとか、そういうパンタレイは、やっぱり諦めなのかな。選択的で非選択的。合理的な判断というよりもほとんど無力感が充満した諦観。不安に押し潰されて、諦観として自決をしたあとの、遺体としての無力感ばかりが積み上がり、春が来て草木が深くなる。
死ぬことも生きることを諦めた、無の境地。だとしたら仏像を拝顔したときの、あの表情はものすごく物悲しい。物寂しいし、自分まで諦めをおぼえてしまう。
おもちゃみたいに「死」を取り上げられてる。死は背の届かない棚の上にあるから死ねない。その感覚と気持ち。絶望してやまないし、もはや死を人質に取られたような気分。焦燥してやまないし、もはや賽の河原にいるような気分。積んでは崩される。手の届かない、触れられないものを追ってる。ごうんかいくう、実体のないものを追ってる。
こんなことばかり考えてしまう。間違えてスマホの音量を最大にしてしまったように、憂鬱を増幅させてしまって、ぎぎんぎぎんと雑音が頭に響いてくる。気をつけなきゃ。とりあえずちゃんと肉も魚を食べなきゃ。