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既成概念を変える人の育成

ボクシングジムを出して13年。色んな事があった。今日は朝から深夜まで色んな人と会い、色んな点が線になった有意義な一日でもあった。

この出来事を忘れぬうちに書き残そうと思う。

お昼に福祉事業を営む、私のブレーンでもある社長の依頼で、友人で現野党の北九州市議会議員の所に顔合わせに行った。

彼は自社の福祉事業のスピードと人が足りないので、という雇用の話なので大変良い事だ。

彼と市議の話が終わった時、北九州の未来について演説をぶった。コロナがきた緊急時、元北九州市議会議長で与党の井上秀作議員が、誰も言わないから表に出ていないある件で、北九州をピンチから救った事。次期市長のこと。

政治というものは、公平になる様な社会になる環境作りを求めなければならない事。大阪府や大阪市、福岡市の話を比喩に出し、北九州をオンリーワンにするにはどうすればいいか。

私は隣に、障がい者施設の経営者を置いてるのに、いや置いてるからこそ、福祉だけに偏らず首長というのは一通りの分野の意見とデータを吸い上げ、公正公平で、実があり合理的な税の配分を判断・指示、実行するべきである、と演説した。

同和利権や土建屋の利権。こういうものが過去、その時々で要るか要らないかを検証せず、時の権力者が牛耳り好きな様にした時代が少なからずあった。こんな時代はもう終わらねばならぬ。

私が夜の市長になったら、公平に富の分配を考え、改めるべきは改め、ある時はどれだけ反対されても、市民が必要だと思う需要や多数の声がある時は、市民の感覚で改革をするよう、北九州市長に直談判に行きたい。

民主主義で大切な事は、51:49という僅差で可決された事は、特に49の意見を頭に入れ、これも吸い上げ事を進めないと、独裁や悪い方のファシズムになる。

ざっとこういう話をして帰った。帰ると幼なじみの友達が家に来ていたので、2人で錆びれた地元、門司区の今を憂いた。

その後ジムに行く。ある紙に小学生に自分の名前を書かせる必要があったから、寄っただけだった。

書いている所を見てると、自分の名前の漢字の書き順を間違えたので、それを嗜めた。
この子は小学生なのに堂々としてよく喋る、それこそ大物政治家の予感のする子である。

「お前は自分の苗字を間違うとは、親も笑われるぞ」。
私がそう言った時だった。
「自分は笑わせたい奴には笑わせます。人の事なんか気にしませんよ」と反論してきた。

即座に頭をはたき、こう言った。

「日本語ほど深くて意味があり、重厚な言葉はない!自分の信じた人生を貫き笑われるても気にしない、というならそれは正しい。しかし字の書き順を間違えるという事は、産まれた国どころかお前の先祖までをも否定する事になる、分かったか!」と珍しく叱った。

嬉しかった。
小学生でこれだけレベルの高い会話ができる子が、我がジムにいる。ジムを営んでなければこんな経験は絶対なかった。

こういう子は一つ間違えると、変な道で大物になる。だから日本語の書き順は絶対に譲れぬ教育だ、と直感で思ったが、こういう教育は家族的なうちのジムの、環境だから目が届き気付く事である。

その後ジムの子の、お兄ちゃんを含む20代の男女を連れ、門司と小倉で飲食をした。

2人とも酔い、水を飲む私はいつもの様にテンションは変わらず話し、そしてこの若い2人の会話をよく聞いた。

実は大人というのは、若者の話を聞いていない。
何故か?
それは自分が若者より経験値もあり優れてる、と決め付けてるから。次に若者の夢が現実には叶わぬ環境だと諦めているから。

私が、今はプロになっている子が中学生の時に起きた、先生の嘘を暴き、うちの中学生になすり付けた冤罪を、はらした事件の話をした時。

一緒に飲んだ若者が教育や家族、心理学の話を用い「中高生には柳原さんの様な親代わりがいなければならぬ」と言った。これが二十代の女の子の言うことか、と思う程びっくりした。

しかし、何故こう言う子達が伸びないか。何故こう言う子達が諦めが早くなるのか。

答えは執念いようだが環境である。
環境は自分で作り変える事ができるが、国の教育や福祉について考えると、その職に携わる者はいつかこの環境では全部を変える事は無理だ、と言う事に気づく。

勿体無いなあ、と思う。いくら世の中不可能はないとはいえ、国や政令指定都市の多くを一気に変える事はできぬ。ではどうするか。

今日一日の行動を掘り下げ、次回気づいた点をまた書くが、私は二十代の頃、結婚や子供を作る事が嫌だった。
理由は2つ。

1 自分のような子が生まれ、もし更生しなかったらどうしよう。
2    子供と妻を養うお金があれば、それを貸して増やしたい。

くだらない・・・。逃げた自分に呆れたことがある。

しかしこの事を心に秘め、懺悔も兼ねて恩返しをと街頭パトロールや教育事業、人には言わぬがボランティアみたいな事をした。

多分、己の卑怯さへの懺悔だと思うが、今や理由はもういい。

かと言って急がず、今日のように色んな人と会う時、もっと若い子の話を聞いて家族のような信頼関係を作るように変えた方が良い。
子供が自分にいないからこそ、多くの子を見る時間がある。

こういうコミュニティが色んな所で広がれば、爺さんの世話はそれが好きな若い子が、子供の勉強は頭のいいお兄ちゃんが、ややこしいトラブルは肝の座ったお兄ちゃんが片付ける。

重い物は力持ちが持ち、料理はそれが好きな子がやる。
会社は逆さまに読めば社会であり、社会は家族制度で生きた子が世に出るからこそ成り立つ。

世に出ると適材適所につく組織が伸びるのは、こう言う事が理由の一つかも知れぬ。

ただこのやり方は倫理と法律を破ってはいけない事を、この家庭、所謂コミュニティのリーダーが徹底して守り、行動も思考も継続する事が課題となる。
その環境を作るのが家族制度なのだが、子供は親や学校以外での環境を、私は知らず知らずに作っているように思った。

昔のように、各地区で困ったことがあれば、町の顔役的なオッチャンが来て、足して二で割り物事を解決する時代が来ればいい。

そしてあの時代、ここに暴力は入らなかった。感情も公平において、大岡裁きをしていた。

これだけで福祉も医療も教育も、かなり費用を削減され喧嘩も減る。喧嘩をしても家族なら、お父さんがゲンコツ一つで治る

こんな理想郷のようなものを、今私は作ってるんだな。そう思えた一日であった。

20歳そこらの眉毛のない松尾が38歳となり、私の家に来てネットの回線をタダで治してくれ、小学生で入った悠太郎が22歳になり、若手を引っ張り実はジムのお金の事も心配して動いている。

16歳のユウヤは家族と自分の道を考え、17歳の錬は今でも私の演説を一つも洩らしてなるものか、という態度で聞く。21歳の中野は家族全体を見て報告を上げ、処理や家族拡大に奮闘している。

自分は間違ってなかった、と思う。


そしてこれからも間違った頃はしてならん。そう思う。

間違ったらすぐに謝り、間違いを表に出す事は私のアイディンティテイでもある。

来年の今は何世帯住宅になるのか。想像できるところまできた。

数は力だが、価値観が同じ者の数の集まりしか、義にはならん。



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