千客万来が続き考える事
最近、オフィスから出る機会が少ない。
朝起きるとラインやメールで「打合せしたい事がある。時間を取れないか?」と言った文言がずらりと並ぶ。
最近、自分が達成したい集大成を見つけたので、余計な知人を整理していたら、志が同じ人しか来なくなった。
TwitterやFacebookなんかを見てると「どうせ◯◯だから無理だ」とか「どれだけ頑張っても、首長があれじゃ変わらない」。
父親が労組の委員長で、地方公務員の子として産まれたからか、私は子供の頃、同じ様な言葉を耳にした。
子供の頃から諦めるのは嫌だ、という反骨芯があった。
無理なんかないと信じ、徹底して一事にのめり込んだ。
やってもないのに文句を言う。ネガティブな事を言う。
そう言う人を批判する気も無くなり、ただ遠ざけた。
そうしただけで、事の達成が早くなった。
憎しみは何も産まない、とも思いだした。
善は悪に一応は負ける。悪は強くて善はどちらかというと、大人しく引っ込み思案だと、かの安岡正篤先生も言う。
これは正しい。
しかしこうも言っている。
強いものが善になるか、善が強いかでなくてはならない、とも。
元々悪だったからか、そういう意味では私はメンタルが強い。
という訳で、最近、善に限りなく近づく努力をしている私は、あらゆる文献を読み漁り、じっくり長考する。
「貴方は攻撃をしながら、同時に防御もするのが得意だ」。
昔、ある人にそう指摘され「へえ。そうなのか」と気付いた。
ローマは一日にして成らぬが、柳原は数十年にしても成らぬ。
攻撃が大きく減ると、防御も減り、結果人生も変わった。
但し先客万来の結果、私がジムにいる時間が少ない分、選手に目が届かなくなる。
私のやる事を殆ど理解してるのが、YANAGIHARAジムの長男、松尾で、私の言った事をひたすら行うのは、ボクシングの教え子の選手で、今は社長秘書の中野である。
この中野をサブする、廣津トレーナー。
北九州を変える我らがチームの核となり、北九州発のe-sportsを意地で完成させた、ユニバーサルプレイジャパン株式会社。
更にこれをどう北九州の為にするか。
共に考え、志を共にする議員や秘書、北九州市の職員。
このNPOを実質的に動かす、同じく北九州の折尾ボクシングジム会長。続いてHONDA SPORTSの代表。
これだけのメンバーが皆、愚痴ひとつ言わず、私の不得手な所を助けてくれる。
と、こう書くと順風満帆に思われるが、上記の様、本業のジムは真面目に練習をする選手、勘違いをする選手に分かれる様になった。
私はあれもこれも達成しようと思い、ある程度いい方向に行ったある時、体が壊れる寸前だった。
だから今、上記の仲間達とゆっくりと、確実に事を行う。
すると何故か怖いほど、事がスムーズに運ぶ様になった。
北九州を変える事は、商工農業界は勿論、北九州のボクシングも変える事にもなると信じる。
北九州のボクシングが脚光を浴びたとすれば、その恩恵に授かるのは、YANAGIHARAジムだけでは絶対にない。
北九州にある、選手とボクシングを愛するジムも良くなる。
それが少しでも広く多く、派生してほしい。
そう信じ、知恵を振り絞り足掻いている。
上記でお分かりの様、1人ではやれない。
ジムの教え子が勘違いしている時「こういう態度でいるとこうなるぞ」と教えていたが、最近思考を変えた。
私は孔子ほど偉くないので、痛い目に遭い「どうしたらいいでしょうか?」と気付き、そういう思いで来た者は見捨てない。
そして、そんな選手と共に進歩したい。
背中を見て分からぬ者は、損得や利のみを追う怖さを、いつか知る事になる。
石に躓き転ぶ前に助ける事は、成人になった選手の場合、為にならない時がある。
四角の一隅については、ジムの選手に公平に教えてきた。
選手の仕事は朝走る事。
練習で追い込む事。
お客様が喜ぶ試合をする事、と。
今やってる事が、自分に与えられた本来ある道か、をまず知る事だ。
大人が「どうせ無理だ」と言う世の中が、良いはずはない。
二十歳そこらのガキが、自分一人で生きてるんだ、と思う思考が良いはずもない。
先日、二十歳程の子が「柳原さん。生きにくくないですか」と言った。
生きにくくははない。
ただ、私は凡人なので、生きにくそうだと思われるのは、修行が足らんのだ。
しかし「世の中捨てたもんじゃねえな」と思った。
この子は苦労して、人の苦しみが分かる様になったんではないか、と思う。
四角の一隅について教えて分からない子は、決して他人の事を思う大人には成らんと思う。
歴史を少し勉強すれば分かるのに、小中学校がいつしか高校や大学の予備校となり、道徳教育をおろそかにした。
政治家がやらないなら、自分でやればいいだけだ。
50名ほどに膨れ上がった、我がジムを良くする事と、北九州の子供に、徳の道を教える事はイコールである。
そんな世界を目指してる時、自分さえという気持ちや、どうせ無理だろう、などと言ってる場合ではない。