指導してて思う事。自分自信の成長を振り返る大切さに気付く。
教えを乞う者が、まず自分で道理を考え、その理解に苦しんで、歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。説明に苦しんで口をゆがめるほどのそういう相手でなければ、助け舟は出してやらない
孔子
上記の孔子の言葉を借り、先日書いた文章を読んで、顧みた。
この言葉をさらに解読して考え、この手に興味のある人に考えをぶつけた。
その結果、私の解釈は間違えではないが、甘かった事に気づく。
本は私の師匠だが、こう言う話ができる人を師友と言う。
師は本当に有り難い。だから師匠がいない人は伸びない。
私は教えを乞う者に、さきに答えを出す事が多い。それが優しさで早く人を助けていると思っていた。
しかし教育の場合は、時として優しいけれど、強くなれない子を生み出していた事にも気づいた。
「まず自分で道理を考え、その理解に苦しんで、歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない」
まず道理を考えても、自分で考える事を諦める、又は直ぐに放棄する人間にしてしまうのではないか?
すぐに答えを出してしまう自分を鑑み、そう反省した。
「説明に苦しんで口をゆがめるほどのそういう相手でなければ、助け舟は出してやらない」
おそらく上記の説明は、孔子という人は全ての答えを言わず、ヒントを出してたのではないか?と気付いた。
そのヒントを手探りに考え抜く。万策が尽きる。教えを乞う者は悩みや困難に立ち向かい、その上で口を歪める様になる。
そこを見極め、やっと助け舟を出す。
そう言うことだと気づいた。
人間というのは思慮浅く、自信がなく中身のない人ほど、人に教える時間と言葉が多い。しかし結果何を言いたいのか分からない。
うちでボクシングのトレーナーになる者に、最初に私が言う言葉がある。
「ボクシングの技術知識という引き出しを多く持て。分かったと思うな。そして、引き出しを選手に対し一気に開けるな」と言う。
ボクシングを教える時はこれが出来るのに、人から相談されたら助け船どころか、自分が船に乗り1人で解決しに行くのが私である。
危機管理コンサルタントなんぞをしてると、1日遅れただけで、
クライアントが、数千万の損害を被る場合がある。
私はこう言う処理能力が高いので、いろんな会社が寄ってくる。
しかしビジネスと教育は分けねばならない、と孔子のこの言葉を読み直し、更に師友との会話でこの理屈に気付いた。
さてこれを何歳までは、船をここまで出し、何歳からはどこから出さぬべきか?
答えは私自信が勉強する事と、体験する事。聞く事。
そして自分の行動を顧みること。
自分の今日と明日が同じであってはならぬ、と言う持論がある。
更に私は悩む、とか、落ち込むと、いう事がない。
つまり普通じゃないので、人が悩む時間にこう言う勉強が出来る。
そう思うとラッキー!と心で叫んだ。
父は敬と厳を持たねばならぬ。
しかし本当の厳は、つまり船を出すタイミングで、敬はそれを子供や選手に正しく行う事ではないだろうか。
一つ言えるのは、この敬と厳が自分を大きく見せたり、自分が偉いのだと言う動機であれば、この時点で教育する資格はない。
何と言おうと利他的な思いは、どんな親も子に対して行うのだから、私は自分の子でない子に、自分の子供と思い、接し行う。
この信念と、顧みる事。
この2つを忘れた時、人の成長は止まる。
間違えた無駄な努力は、間違えた経過をただ行う人であるので、正しい結果は出ない。
心の在り方さえ間違わねば、人は道を大きく踏み外さない。
こう言う勉強は、本当に楽しい。