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「取り出し授業」の違和感。2年前にも。
今日は、昨日投稿した下記記事「違和感を感じる学校現場の表現2つ」のうちのひとつ、「取り出し授業」について書きます。
正確に言うと「書きます」じゃなくて「書いてました」です。
社会福祉士の可能性を探求し、社会福祉士自身が元気であることを望み、世の人々の心が軽くなり、そして私の収入もアップすることを考え続けて23年、フリーの社会福祉士(2001年開業)柳田明子です。
私、2010年から2024年3月まで別のところでブログを書いてたんですけど、そこで2022年7月に「取り出し授業」について書いてたんです。
昨日の夜にふと思い出して探しました。
全文を再掲します。
「取り出し授業」という言葉を初めて耳にした時、私はそれを、何か特定のテーマや課題を「取り出し」て授業を展開することを意味するのだと思いました。
でもそういう意味ではないようだと知りました。
「取り出し授業」とは、どうやら、通常の教室以外で少人数で先生と学習・授業をおこなうことのようなのです。
つまり「取り出す(取り出される)」のは生徒。
通常のクラス・教室という大きな箱から一部の生徒を「取り出し」て、別の教室で授業をするということらしいです。
いやいや、ふつう「取り出す」って人に対して使います?
私はとても違和感を感じます。
「取り出し授業」という言葉は、とても無機質で、一方的で、そこにひとりひとりの生徒は見えなくて、「取り出される」生徒は抗うこともできない大きなクレーンにピックアップされているような、そんな胸の痛みを覚えます。
単なる教育上の用語だと言われるかも知れません。生徒本人に対して使う言葉ではないのかも知れません。
だとしても、だからこそ、私は当たり前に「取り出し」というワードが人に対して使われている状況にかなしみと痛みを感じるのです。モノじゃあるまいし。
「選択授業」ではダメなのかなぁ。
あるいは「離クラス授業」とか?
あ、「離クラスプラス授業」だったらちょっと前向きな感じがするかな。
「取り出される」というよりは、自らの意思でいっとき教室を「離れて」自分にとって「プラス」の授業を受けるというイメージで。韻も踏んでるし。
たかが言葉、されど言葉。
以上、「取り出し授業」という表現に感じたことでした。
ブログからの再掲は以上です。「違和感」とか「胸が痛む」とか「モノ」とか、2年前も昨日も同じ表現つかってますね…
本日は以上です。
今日も気持ちの良い一日を!
柳田明子社会福祉士事務所〰聴く・伝える・ともに考える〰(2001年開業)
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