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戯作三昧(著者:芥川龍之介)

底本:「日本の文学 29 芥川龍之介」中央公論社 1964年10月5日初版発行
 
天保二年九月、午前。神田の銭湯松の湯では、朝から客が多かった。その混雑の中に、六十あまりの老人がいた。滝沢馬琴(ばきん)である。
 
馬琴は生活に疲れているだけでなく、何十年来の創作の苦しみにも疲れていた。今は、「八犬伝」の執筆中である。風呂の中で、馬琴の作品の悪評を言っている者がいる。『「どうして己は、己の軽蔑している悪評に、こう煩わされるのだろう」』と思う。
 
うちへ帰ると和泉屋市兵衛という本屋がいる。原稿の依頼に馬琴は不快を感ずる。馬琴は、彼を追い返す。
 
馬琴は八犬伝の稿をつごうと昨日書いたところを読み返すが、ぴったり来ない。『「これは始めから、書き直すよりほかはない。」』と馬琴は心の中で叫ぶ。憂鬱な気分である。
 
そこに、孫の太郎が帰って来る。以下、引用する。
 
『「お祖父様ただいま。」
「おお、よく早く帰って来たな」
この語(ことば)とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。
 
「あのね、お祖父様にね。」
「よく毎日」
「うん、よく毎日?」
「御勉強なさい。」
馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、
「それから?」
「それからーええとー癇癪(かんしゃく)を起こしちゃいけませんって。」
「おやおや、それっきりかい。」
「まだあるの。」
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」
「ええとーお祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず真面目な声を出した。
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
「誰がそんなことを言ったのだい。」
「それはね。」
「だあれだ?」
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
「違う。」
「あのね」
「うん。」
「浅草の観音様がそう言ったの。」
馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那にひらめいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。』
 
注:『』は引用文
 

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