「大衆」という名の没個性がもたらすのは安らぎか、それとも不満足か
OMSBの『大衆』という曲を、このところよく聴いている。
彼の半生を交えたリリックには疎外感や煩悶、幸福が散りばめられており、穏やかさを湛えている。
そこにブーンバップ的なビートも相まって、温かさの中で鈍い光を放つ一曲になっている。
「大衆」に対する違和感
僕は評論家でもなんでもないので御託はさておいて。
実は「大衆」という言葉がどうもしっくりこない。
纏わりつく「なぜ皆と違う?」という疎外感と同居しながら「誰にもなれないし 自分の普通をやる毎日」という自己受容を経て、彼が辿り着いたのは「お前も今日から大衆だ」という安堵の日常。
この流れにはカタルシスを感じるし、励まされる人も少なくないだろう。
しかし、である。
出自ゆえに孤独感や焦燥感を抱えて生きてきた先にあるのが、「普通ってなに?」と踠いた末に手に入れたのが、「誰にも変え難い 愛しのLadyから なんと愛しのBabyが産声をあげた」ことで実感できたのが、没個性的で匿名性を帯びる「大衆」でいいのだろうか。
他人と違うことは恐怖であり、他の皆と一緒であることに憧れを抱く気持ちは(推し量ることしかできないが)理解できる。
ましてや幼少期に無意識下で感知する同調圧力の前では、その恐怖や憧れは大きな壁として立ちはだかるはずだ。
だからこそ、その壁と向き合う過程で唯一無二の個性がアイデンティティとして確立され、光り輝くのではないか。
大衆の仲間入りはその輝きを鈍らせてしまう可能性も秘めている。
果たしてOMSBが目指したのは、本当に「大衆」なのだろうか。
大衆とは「無名」であること
そもそも「大衆」とは何か。
一般的な意味としては、「多くの人、多衆」である。社会学では「社会学で、孤立して相互の結びつきを持たず、疎外性・匿名性・被暗示性・無関心などを特徴とする集合的存在」のことをいうようだ。
雑に表現すると「匿名性を帯びた無責任な集団」、いわゆる「普通の人」と言えるかもしれない。
他人と違うという感覚を抱き続けたOMSBは、家族を手に入れたことでついに「大衆」となった。心のどこかで憧れていた「普通」になったわけである。
だがそれによって、彼の個性はどこへ行くのだろうか。「普通」は個性を許容できるのか。
もしかすると「大衆」となった彼の元に訪れたのは、疎外感からの脱出、そしてその喜びや安堵だけではないのかもしれない。
大衆への仲間入りを果たした一方で、輝きを失ったアイデンティティもあるのではないか。
憧れた「普通」になったことで個性が姿を隠し、「無名」になってしまってはいないか。
OMSBが手にしたのは安らぎか、それとも新たな不満足かー。
「死ぬまで付き合うよ」というリリックには、個性と没個性の狭間で揺れながらも、それを受容して生きていこうとする諦念が込められているのかもしれない。
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つらつらと屁理屈をこねてみたものの、OMSBが一般的な、いわゆる「普通の人々」のことを言葉の綾として「大衆」と表現しているのだということは重々承知しています。
その上で、少しだけ深読みをしてみました。