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メディアの話その118 下河辺淳さんと16号線。

東京に人が集まるのは「情報」に需要があるから。情報さえ手に入れば、人々は地方により分散する。
関東平野は肥沃で、徳川家康が江戸をつくり、大東京という世界都市ができた。でも、縄文人に相談したら、ちょっと否定するかもしれない。
19世紀20世紀の東京の展開は、縄文時代には海底にあった元ヘドロ地帯。
縄文人は、武蔵野台地、大宮台地、下総台地、多摩丘陵という高台に暮らした。
20世紀の日本人はその谷間の低地に暮らしている。
でも直下型地震があったらこの街はもつのか? 日本はもちろん世界経済にも打撃があるのではないか?
お台場周辺のビジネスセンターは危うくないか。東京湾岸に新都心というのは土地を売るのが目的で、リスクが勘案されていないか。
人口が7000万人台になったら、縄文人のように低地から台地に移動して暮らすべきではないか。
そのときに重要なのは、江戸時代までの「流域主義」の暮らしかただ。
江戸時代まで300の藩は、河川流域単位の「水系」でできていた。
明治からの100年は(鉄道主体)の交通主義で、東京の一極集中が起きた。
けれども、コンピュータの発達と自動車の普及で、ふたたび「水系主義」「流域単位」の街づくりが可能となる。
明治からの東京一極集中の時代がおわり、21世紀は小都市文明時代になる。情報化が進み、在宅勤務や在宅診療も可能になるからだ。
ーーー以上は、私が『国道16号線』で記した仮説とぴたりと呼応する。
ただし、書いたのは私じゃない。
戦後の日本の国土開発のグランドデザイン、全国総合開発計画=全総を1960年代から構想し、実行した不世出の官僚、2016年に亡くなった下河辺淳氏のことば、である。
60年代にコンピュータの普及による情報化を見越し、東京一極集中の限界を予想し、河川流域単位の総合定期な土地利用を1970年代に構想し、明治からの100年が「交通主義」だったのに対し、モータリゼーションを加味した江戸時代までの「水系主義」で、土地利用を見直し、「流域圏定住」をメッセージした三全総を打ち出した。
「流域思考」を私に叩き込んだ岸由二先生が、『国道16号線』を読了したあと、「全総や下河辺淳さん、16号線の開発にかかわってないの?」と質問をなげかけてくれた。
全総も下河辺さんも知っていたが、16号線執筆時点に、その構想を当たる、というのは念頭になかった。
この3月、2016年に亡くなった下河辺淳さんの評伝がかつての部下であった塩谷隆英さんの筆で刊行された。とりよせて、読んでみて、ぞくっとした。
国道16号線で私があっちにいったりこっちにったりしながら描いた仮説は、いまから40年前に下河辺さんが首都圏の開発計画の下地として、とっくにたどり着いていたのである。
国道16号線の施行は1963年であり、周辺のニュータウン開発は1950年代である。
下河辺さんの全総のプロジェクトと同時代だが、いま調べている段階で、直接の関係性はみつからない。
が、下河辺構想を具体的に「彼が構想した自動車で移動」すると、首都圏の郊外の小都市をむすぶ16号線沿いのこの60年とぴたりと呼応する。
不勉強だった。。。。
ただ、本書を読んでちょっと勇気も得た。
私の仮説が下河辺さんのそれと一致したのは、偶然じゃないことがはっきりわかったからだ。
河川流域単位の地形がまずあって、その地形に準じて近代まで人間は暮らしてきた、という、地理学的事実、生物学的、人類学的事実をベースにした、という点がおんなじだったから、である。
圧倒的なファクトをベースにすると、全く異なる時代、全く異なるアプローチから、おなじ仮説、同じ論に行き着く。
16号線は、その事実を結果としてプロットした現代の道路、というわけである。だから、16号線という道路がどうやってできたのか、だけをみていても、16号線エリアのことはわからない。
さて、ここからどう展開しようか。
そして、本書冒頭には、御厨貴先生がおことばを寄せられている。御厨先生、今度いろいろおしえてください!
下河辺淳小伝-21世紀の人と国土-塩谷-隆英/

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784785728519

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