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メディアの話 私たちはなぜ未来の「どこにいるのか」と「どう移動するのか」を想像できないのか?
先日大学の「未来」についてのワークショップにずっと出ていたんだけど、そのとき気づいた。
このワークショップでは2018年から19年のコロナ前に、みんなで考えた2040年の未来を考えた。
リモートワークやワーケーションや生成AIの普及なんかを予想していて、これが20年後どころか1年後に予想が的中して、「シン・インターネット」で村井純さんに取り上げられたりした。
が、今回当時予想した未来図を並べて見て気づいた。
ひとが実際にいる場所、そして、移動の方法の未来を、いっさい予想していなかったのだ。
わたしもふくめ。
ARやVRや宇宙のことは予想するのに、20年後、どんな家に住んでいるのか、どんな建物で働いているのか、どんなかたちの街になっているのか、主要な交通手段、移動手段、物流手段はどうなっているのか。
のべ百人以上の(私を除くと)きわめて優秀な各界の人々や東工大の学生たちが参加していたのに、ひとつもないのである。
どこにいるのか。どう移動するのか。
についての未来予測が、ない。
なぜなのだろう。
私たちは、どこで暮らすのか、どう移動するのかが「変わること」を、もしかすると「考えない」生き物なのかもしれない。
住むこと、移動することについては、おそろしく保守的で、未来をみない。
大脳の中の環世界については宇宙の果てまで飛んでっちゃうのに。
実際の人類の歴史は、住み方と移動の仕方の技術革新で不可逆的に文明のかたちを変えている。
にもかかわらず、我々は技術確認による移動とすみかたの変化を予測できない。
鉄道がでてくるまで、鉄道の世界を誰も予想できなかった。
自動車が普及するまで、自動車の世界を誰も予想できなかった。
飛行機が普及するまで、航空と空港の世界をだれも予想できなかった。
巨大建築が普及するまで、超高層ビルに棲むことを誰も予想できなかった。
未来予測は、いちばん重要な「どこにどうやって住む」「どうやって移動する」が、なぜか抜け落ちる。
これ、ものすごく重要な発見かもしれない。
今日、丸一日かけてワークショップに参加したかいがあった。
追伸。
で、そのあとクドカンさんの「不適切にもほどがある!」を見て、
シンクロニシティに戦慄した。
1986年と2024年。
アベサダヲが、
二つの時代を勘違いしちゃうのは、
道路とバスと住宅が
38年経っても同じだったからである。
考えてみると、今住んでいる集合住宅も80年台産のリフォーム物件である。
変わったのは、ソフトウェアとみんなの意識、概念。
なるほど、住むと移動するは、滅多に変化しない。30数年、大して変わってなかったのだ。
だから、たまにある「いる場所」と「移動する方法」の大変化を私たちはイメージできないのである。
そしてこのドラマがメディア論として実に優れている点。
それは、形のあるリアルなメディアであるバスや道路や住宅は滅多に変わらないのに、「概念」は形がないのでどんどん変わっちゃう、という現象を、見事にドラマに紹介していること。
そして、そんな概念の入れ物としての「つるっとしたもの=スマホ」の存在に阿部サダヲの違和感を集約して見せているところ、である。すぐに慣れちゃうところも含め。