珈琲と映画とワタシ
自宅で映画を見る時は、必ずコーヒーを共にする。
映画館で見る時は・・・、なぜだろう、コーラを頼んでしまう。
(しかし、uplinkの時は伊良コーラだ、これは美味しいから)
ついコーラを頼んでしまう自分があまり好きではない。
これはおそらくシネコンの雰囲気にのまれてしまっているから、なのではないだろうか。
映画館の椅子に対して便利に開発された、不思議な形のドリンクとポップコーン置き器具を取り付けて、上映中ムシャムシャと止まることなく動き続ける手と口・・・。
これが今現在の映画の文化なのだと思う。
嫌いだとは言わないが、少なくとも上映中静かな音のないシーンでは手と口を止めていてほしいと思わなくはない。
(それか家族向け映画だけにしてほしいと言わないでもない)
『珈琲』って豊かな時間を醸成するよね、って話をしたかったはずが、気付くと日常の不平不満を口にしてしまっている自分に嫌気が差す。
そう、珈琲と映画は相性がいい。
ジム・ジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」。
コーヒーだけでなくやはりタバコも相性がいい。
そしてモノクロだから余計にいい。
何も起きていなくていい、ただしゃべっているだけでなぜか見ていられる。
街を歩いていてコーヒー屋があると入らずとも中の様子を見てしまう。
ドリッパー、エスプレッソマシーン、カップ、客の顔・・・。
外に漏れ出るコーヒーの香り。
そう、やはり香りなのだ。
豊かな時間だなと思えるのは、コーヒーの香り。
ドリップしてカップに注がれてからの香りをかいだあと、豆の香りをかぐ。
この香りからこの香りに変わったのか、と気付くだけで世紀の大発見をしたかのような気分になる。
冷めてもおいしい。
映画を見続ける1時間半、2時間の間、コーヒーはずっとコーヒーでいてくれる・・・。
そこにポップコーンは要らないのだ。
やはりジム・ジャームッシュの「パターソン」。
繰り返される主人公たちの日常。
コーヒーも日常だからこそ、コーヒーとの相性はバツグンだ。
(とりわけジャームッシュの映画が好きというわけではなく)
スパイク・リーの「She’s gotta have it」もそう。
NYで繰り広げられる自由な女性と振り回される3人の男の物語。
NY×モノクロの破壊力はコーヒーなしでは視聴不可能だ。
いつものコーヒー、だけどいつも違うコーヒー。
獅子文六の「コーヒーと恋愛」の中に、『淹れる時の気分や感情の違いによってコーヒーの味が違ってくる』というような一節がある(確か)。
それは具体的に言えば、お湯の温度や抽出時間によって微妙に変化するため当然と言えば当然なのだが、しかしそう捉えるからこそ面白い。
コーヒーはその時の自分の写し鏡ということなのかもしれない。
話を戻そう。
詰まるところ、映画には珈琲なのである。