見出し画像

「皆が大切に育ててくれた」

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『ボタン穴から見た戦争 白ロシアの子供たちの証言』(三浦みどり訳、岩波現代文庫、2016)
 1941年にドイツ軍がソ連領に攻め入った。ベラルーシ(当時の白ロシアソビエト共和国)はその戦闘地域で、大量の民間人が殺害された。最初に正規軍が作戦地域を制圧すると、そのあとにアインザッツグルッペン(特別行動部隊)という人殺しだけを専門にする組織が「パルチザン掃討」の名目で女性や子供、高齢者を殺害し、村を焼いた。本は、80年前の戦争開始当時0~14歳だった白ロシアの子供たち101人の証言を集めた。父親は戦闘員になって家族から離れ、多くの場合、帰らなかった。残された母親と子供と祖父母が逃げ惑い、幸運な場合はパルチザンに救出された。戦争の後半で赤軍が盛り返す前は、ベラルーシには地上戦ですらなく、無抵抗な市民がひたすら殺害された。「戦争は嫌だ… …と皆に伝えてください」とインタビューするアレクシエーヴィチに言葉を託す人もいる。それは日本でも体験者からよく聞かれる言葉で、その悲惨さを比べることに意味はない。ないが、眼前でライフルや拳銃で肉親が殺され「白い紙おむつをつけた赤ん坊が炎の中に投げ込まれた」というような一方的殺害の中から生まれてくる証言を読むとき、その言葉の奥にある発話者の体験のすさまじさに戦慄するばかりだ。
 16歳の時にお嫁に来たという母の三人の子のうちのお姉ちゃんは、父が殺された後の家族がどう生きたかを淡々と話す。「私と妹と弟、三人とも成長して、高等教育を受けました。私たちは意地の悪い人にはなりませんでした。もっともっと人を信じ、もっと愛するようになりました。それぞれに子供があります。お母さん一人の力ではこんな風に私たちを育てることはできなかったでしょう。私たち、戦争の子供は、皆が大切に、育て上げてくれたのです。」(p.146)
 飛行機が飛んできて機銃掃射する、爆弾を落とす。防空壕に逃れた子供たちは怯え、頭からコートを被る。そのボタン穴からのぞいた戦争の姿が頭から離れない。アレクシエーヴィチは旧ソ連にあった「戦争孤児のクラブ」「孤児院育ちの人々の会」などの組織を訪ねてはインタビューを重ねたらしい。そういう組織ももう今はなくなったのではなかろうか。
 「特別行動部隊」が侵入したベラルーシでもウクライナでも状況は同じようなものだっただろう。戦争がどんなものかを「戦争の子供たち」はみんな知っていた。しかしそのほとんどはすでに亡くなった。彼らは衰え、声はかすれて小さくなり、消えていった。ちょうどその世代がいなくなった時期に、また戦争が始まった。
 ロシアも北朝鮮も米国も中国も、政治指導者とその周辺に「戦争の子供たち」はすでにいない。「敵基地攻撃能力」「防衛費倍増」などという正気の沙汰とは思えない見出しが新聞に踊るようになった時代がどうしてきてしまったのか。その理由を教わった気がした。

いいね!
コメントする
シェア


いいなと思ったら応援しよう!