【平安時代】藤原師輔の日記『九暦』の現代語訳―天暦五年(951年)
『九暦』の現代語訳
天暦五年(951年)
1月3日
東宮(憲平親王)の侍臣、大夫以下が南庭において拝し奉った。
四位・五位が一列、六位が一列に並び、北面して東を上とした。
昼御座を撤去し、掃部寮の倚子を立てた。
母屋の御簾を垂らし、庇の簾を巻いた。
昨日は雨だったので、今日、このことを行った。〈昨日が大饗であった。〉1月14日〈丙子〉 左大臣大饗
申三刻、御前の内論議が終わった。
左大臣(藤原実頼)の大饗があった。
私(藤原師輔)は退出して東宮(憲平親王)に伺候した。
四刻、府の中将朝成が請客使として来た。すぐに進み向かった。拝礼した。
その他のことは、通例のとおりであった。
左大閤(藤原実頼)が前日に示して言ったことには「致仕の宰相は、必ず招こうと思う」という。ところが今日に及んで、その事はなかった。1月15日〈丁丑〉 右大臣大饗
家の大饗があった。東殿において行った。
午の刻、納言以下が来て集まった。
そこで、府少将真忠朝臣を請客とした。
申四刻、尊者が入来した。
史生を召した後、雅楽の舞があったのは、通例のとおりであった。
前例があったので、致仕参議(伴)保平を喚んだ。再拝し、座に着した。
その他のことは、通例のとおりであった。2月13日 二条院行幸/紅梅宴
二条院に行幸した。
紅梅の宴があった。
寝殿西廂に両帝の御座を装った。
(朱雀)上皇は北面し、今上(村上天皇)は南面した。
左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)を召した。
両帝の御膳は、中宮(藤原穏子)が儲けられたという。3月16日 殿上賭弓
左大臣(藤原実頼)が御読経の請僧を定め行った。
今日、殿上賭弓があった。
申の刻、王卿を召した。殿上人・非殿上人が皆預かり参った。これは、仰せによるものである。
また、前後の射手は各々障りがあって六人しか伺候しなかった。
その時に臨んで王卿に命じ、射手に加え入れたという。
左右対称が奏を進めた。3月20日
仰せにより、仁王会の請僧を定め行った。
左大弁朝綱を参議の座に召して着した。書かせて奏聞した。
ただし、検校の書出を奏上しなかった。
両大弁が参議ではないときの例では、勘出しなかったからである。3月21日
非参議大弁の例を調べ、行事弁の上に加え入れた。
あの例によって書き出し、このことを奏上した。ただし、検校民部大納言・治部宰相である。4月5日 斎院御禊の前駆を定める
外記正統が言ったことには「左閤(藤原実頼)が命じて言ったことには『所労があって参らない。参入の奏上をして、御禊の前駆のことを申し行わせるように』ということでした」という。
宰相が伺候していなかったので、右大弁(藤原)有相に書かせた。
降雨のため、自ら参上しなかった。この弁に奏上させた。4月8日 灌仏
陣の座に着した。
申の刻、上達部を召した。
灌仏は、通例のとおりであった。
座を起って進退し、又廂第三間を用いた。ところが、義方朝臣が言ったことには「先例では、四間を用いました」という。6月10日 御体御卜奏/直物
陰雨であった。
「左大臣(藤原実頼)が内裏に参り、御体御卜を奏上した。
内侍が伺候していなかったので、大臣が参上して奏上させた。次に直物を奏上した」という。10月1日 旬/菊花宴の禄についての議論
「弁官は一人も伺候しませんでした。目録を外記に下給しました」という。
先月末、諸卿に問われて言ったことには「諸々の節会とはいえ、禄物を下給しないのであれば、やはりこのことを行う。これはよいことではないが、行き来したことは、すでに久しくある。九日節に至っては、禄を下給しなかった先例はない。十月の宴は、九日節に准える宴である。ところが、諸国の綿を進納ことはなかった。そうであればつまり、この節会を停止すると、禄を下給しないとはいえ、やはり行う間、必ず定め申すように」という。
左大臣(藤原実頼)が申して言ったことには「諸々の節会は、禄物を儲けて行わなければなりません。けれども、年来の例によって、諸国が遅く進納したとしても、禄がなくともやはり行われるべきです。この節会は、去年に初めて行われました。今年、停止されるのは、便宜がないのではないでしょうか。それだけではなく、九日節は多く風水の損害により、停止しました。ところが今年は、すでに豊稔の聞こえがあります。どうして禄物がないからといって、この宴を停止すると言っても、数多く儲けず、少しばかり行われるのがよろしいでしょうか」という。
左大弁朝綱朝臣が仰せを伝えて言ったことには「菊花宴は、今年以後、しばらく五日に行おうと思う。その旨の宣旨を諸司に下すように。ただしその日が御物忌に当たるのであれば、またまた思惟し、決定するよう命じる」という。10月2日
左大弁(朝綱)が来て、伝えて言ったことには「御物忌とはいえ、やはり御出するべきです。早く宣旨を下すべきです」という。
すぐに大外記実相真人、事情を伝えた。10月5日 菊花宴
天が曇った。
早朝、東宮(憲平親王)の宿所から藤壺に渡った。
(藤原)伊尹が来て、仰せを伝えて言ったことには「今日、御題を賜わろうと思います。先帝の御日記を見たところ、ある例では書き出されました。またある例では御題を賜ったことだけで、詳細が見えませんでした。詞を以て伝えようとすれば、もしかすると相違があるでしょうか。また、急に筆を下ろすのは便宜がないでしょう。これを如何しましょう」という。
奏上して言ったことには「事前に書き設けておき、置物御机に伺候し、その時に臨んでこれを下給するのは如何でしょう」という。
伊尹が戻ってきて言ったことには「よろしい。そのように行うように」という。
束帯して、女御の上曹司に向かった。相語ったついでに言ったことには「主上(村上天皇)が事のついでに仰って言ったことには『文章博士直幹は、最近職事に補任したのであろうか。道理に背いたことが多い。それだけではなく、先日、内御書所に伺候した男について問うたついでに、申した詞と議定の日に行ったことがすでに相違していた。このため、伝え行ったことが道理に背いていた理由である。ところが、左大臣(藤原実頼)は勘事を免じるようにと奏上させた。けれども、謂う所がよろしくなかったので、勘事を免じなかった」という。
午四刻、南殿にいらっしゃった。
殿上・階下の膳を遅く弁備したので、この時間に及んだのである。
未の刻、門を開いた。その後、しばらく舎人を召さなかった。
後で聞いたことには「闈司が遅れて座に着したので、延引しました」という。
二刻、舎人を召した。大舎人が一人足りなかったので、召使を代官とした。
同刻、列を引いた。親王が遅参したので、私(藤原師輔)が貫首人として列を引いた。終わってから、謝座・謝酒があったのは、恒例のとおりであった。
座に着した後で殿上の装束を見たところ、すこぶる去年の事を相改めていた。一つ目は、前方に置く硯筆があった。二つ目は、御膳の南廂の中央の間に、東西にそれぞれ金銅の花瓶を立てていた。樹は、菊花であった。〈式部卿重明親王が語って言ったことには「延長の御代、花瓶は高大であった。想像するに、図書寮の御読経のときに御膳に立てた瓶のようだ。今日の瓶は、これは普段からその時の節会に花を覧る時の瓶である」という。〉三つ目は殿上の文台で、去年中央の間に立てたものである。今年、東第四間に立てたのは、旧例に合わせたのである。
中務省・式部省の両省による点検が終わった後、左大臣が座を起って題を献上させた旨を奏上した。すぐに維時朝臣を召し、朝綱朝臣・元夏を召すようにと命じた。〈先例では、両文章博士を召した。ところが、直幹の勘事によって召したのである。〉
朝綱が書いて言ったことには「紅葉高窓雨」という。元夏が書いて言ったことには「菊寒花転密」という。大臣が伝奏した。
ただし、去年御覧になったときは筥を置いて笏を取った。今年御覧になったときは、筥を執って伺候した。仰って言ったことには「献上した題は、すこぶるよろしくない」という。先例に准えて、御題を給わって言ったことには「聚香近菊籬」という。「ただし博士に命じて、韻字を託させよ」という。すぐに留まって題を儒所に下給した。ところが、更に書いて韻字を注記した。「長」を韻とした。〈御膳から給わった題は、韻字を注記するだけであるべきであろうか。ところが、更に改めて書いたのはすこぶる穏便ではない。〉すぐに、再び奏聞した。
また、一通を書き、殿上料とした。大臣が座に戻り、序を作成するべき博士を問うた。朝綱朝臣が申して言ったことには「元夏が献上するように」という。ただし、初めて儒が献上した題は左大臣の座の前に留めた。
次に、御膳を益供した。また、臣下に下賜した。三献の後、内教坊奏を進上した。別当が座に戻る前に楽を作成した。これは、違例なことである。
別当左衛門督が言ったことには「殿上、仰って言ったことには『光景はすでに傾いた。二献の後、奏上するように』ということでした。ところが、仰せを承ったとき、自ずと三献の後に及んでいました。左閤(藤原実頼)が述べたことには『ご病気のため、罷り出たいと思う』ということでした。遣る事は、もしかすると申し行われるべきでしょうか」という。その命令により、酒勅旨のことを奏上して行った。
また、内教坊奏が載せた舞は五曲であった。「ところが、仰せによって喜春楽を留めた」という。
「中監物三善久在が前にいて詩を献じた。音楽がようやく終わろうとしていたが、王卿の中にはまだ詩を献上していない者がいた」という。そこで内豎を差し遣わし、催し伝えた。しばらくして、音楽が終わった。
参議維時がわずかにこれを献上した。
音楽の後、長い間文台の筥を取らなかった。
また、去年は筥を取った後に女楽拝があった。それだけではなく、旧い宣旨を見たところ、筥を取った後は拝がなければならない。そこで数度催し伝えた後、式部少輔元夏が筥を取って軒廊の東第二間の南砌の外に進んで立った。ところがこの場所に立ったのは、便宜がないようだ。
左近少将兼材が伝えて御膳に取り置いた。如何であろう。
私はこの時、見参を催すために陣座に着し、これを見た。
伊尹に奏上させて言ったことには「今日は御物忌です。もし夜更けに及べば、恐れることがないわけではありません。それだけではなく、詩を読むのは必ずしも南殿において行うものではありません」という。それから、左右が仰せに従って進退した。また、致仕参議伴朝臣(保平)は、仁和・延喜の先例に准えて見参に入れさせるのは如何であろう。仰って言ったことには「詩を読むことは、停止に従うように。保平朝臣は、旧例に准えて見参に入れるように」という。すぐに外記武並を召し、この卿は参入しなかったとはいえ長く見参に入れるように命じた。〈今朝、あの卿の消息によって奏上し行ったのである。〉
大蔵が禄の綿を積み、右少弁国光が目録を奏上した。見参を奏上しようとしたとき、小雨が降った。そこで、改めて南廊に積んだ。積み終わってから奏聞した。次に参議雅信朝臣を召し、宣命を下給した。維時朝臣を召し、見参を下給した。王卿以下が座を起った。雅信朝臣が立ち、宜陽殿の西廂の南第三間において笏を挿し、左掖に宣命を開いた。〈先年では、大納言(藤原)元方卿が雨儀の日に宣命を奉仕したとき、右掖に宣命を開いた。その時、入道親王が難じて言ったことには「雨儀に書を開くときは、左掖において開かなければならない。ところが、右において開いたのは違例である」という。今日、この参議は右掖においてこれを開いた。父親王の教えによるものであろうか。また、宣命は曲折し、すこぶる師説があるようだ。〉
終わってから禄を下給したのは、通例のとおりであった。ただし、越中・石見の綿を禄に充てた。〈御服に充てた国々とはいえ、他の綿がなかったからである。〉
綿が少ないため、ただ、王卿の手禄及び文人に下給した。
亥の刻、事が終わって罷り出た。10月25日 申文
申文があった。
綱所が申請した僧綱、具わっていない解文・周防国の不与状であった。〈この時、右大臣であった。〉10月26日 東宮御魚味始
申の刻、(憲平親王が)初めて魚類を食された。〈降誕してから、来月で二十ヶ月になる。世俗に言ったことには「二十月に及んで魚を食す」という。ところが、故女一親王は二十月に満ちて初めて魚を勧めた。その例は、よろしくない。そこで今月、供したのである。〉
頃月、御膳は銀の御盤八口・御羹の垸四種を以て供し奉った。ところが、今日から初めて土器の御膳を加え供した。権春宮亮(藤原)有相朝臣が陪膳を奉仕した。供した後、右兵衛佐(藤原)兼家が殿下(憲平親王)を抱きかかえて昼御座に就いた。有相朝臣は、初めに鯛を供した。次に、他の魚鳥を供した。私(藤原師輔)及び左衛門督源朝臣〈高明〉・大夫藤原朝臣(師尹)が御前に伺候した。庁、饗を殿上及び蔵人所・帯刀陣に設けた。料物は、敷物三前であった。前別に六枚であった。一前は、内裏の乳母少納言の料物であった。〈この乳母は、今日の明け方、女御の御供として参り来た。これは、魚を食すことを見奉らせるために謂ったのである。〉一前は、宣旨であった。一前は、上総であった。机食は二十前〈十前は、台盤所であった。十前は、女御の御方の女房であった。〉
また、内裏の女房の饗は机食二十前であった。春宮大進(藤原)遠規が調えたものである。
また、同じ殿上の侍に物菓子五種〈四種は、土器の中垸に盛った。一種は、折櫃に入れた。〉・干物四種〈片垸に盛った。〉・糟交の雉〈中垸に盛った。〉・飯一垸〈青瓷の大垸。〉・酒一瓶〈大。〉及び塩梅であった。これは、大夫家が調えたものである。このことは、先例がないとはいえ時の定めがあって調えたのである。
夜、少納言が帰り去った。女装束一襲をこれに下給した。12月5日
少納言南金が小忌に伺候した。
ところが、豊明節会の日に参らなかった。そこで、大忌統茂を伺候し召した。あれこれ、先例がない旨を称した。その旨について、外記理綱を介して南金に問わせた。