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陰陽師たちの活動記録:円融天皇時代

平安時代の陰陽師たちの活動記録をわかりやすく簡単に解説します。円融天皇時代における陰陽師たちの活動を紹介しています。
安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史の中で活躍してきたことがわかります。

活動記録

安和二年(969)

◆9月15日 賀茂保憲が天文密奏を行う
安和二年(969)9月15日己未、天文博士賀茂保憲は去る14日酉の刻に太白星が南斗第四星を犯していたことについて天文密奏を行った。(『賀茂保憲勘文』)

天禄元年(970)

◆11月8日 安倍吉昌が天文得業生になる
天禄元年(970)11月8日丙午、安倍吉昌は賀茂保憲の推挙で天文得業生となった。(『類聚符宣抄』)

陰陽寮解曰く、正五位下行主計頭兼天文博士賀茂保憲の牒に「件の(安倍)吉昌は、聡明で勉学に勤めることを怠りません。望んで願うことは、天文得業生竹野親富が満九年になるので、替わりとして補任していただきたいです」と。陰陽寮が牒状により申し送り、中務省が解状によって申し送ること件の如し。
従二位行大納言兼皇太子傅侍従源兼明が宣する。「請求の通りにせよ」と仰せになったので、これを承った。

天禄三年(972)

◆5月7日 陰陽寮の勘文が奏上される
天禄三年(972)5月7日乙丑、先日、左大臣(源兼明)が陣頭において陰陽寮の勘文ならびに使者の差文を奏上させた。(『親信卿記』)

◆11月10日 文道光が藤原伊尹・源兼子の薨奏の日時を勘申する
天禄三年(972)11月10日、故太政大臣(藤原伊尹)ならびに源兼子の薨奏があった。
蔵人が案内を取り、御簾を下ろした。これより前、所司を召して伝えた。主計権助(文)道光宿禰が日時を勘申した。〈「着御は当日の戌の刻。除かれるのは、来たる十二日の戌の刻」という。〉(『親信卿記』)

💡陰陽師が選定した吉日吉時に行事が行われる
天禄三年(972)11月12日戊辰、戌の刻、錫紵を除かれた。(『親信卿記』)

◆12月6日 安倍晴明が天文密奏を行う/四角祭を勧める
天禄三年(972)12月6日壬辰、天文博士安倍晴明は右兵衛陣の外において天文密奏を行った。触穢によるものである。奏文に言ったことには「去る月の二十日に歳星が進賢を犯しました。今月の四日には月が太白と度を同じくしておりました」という。
また、奏上して言ったことには「去る春より疫病があり、今、冬季に臨んでおります。四角祭を行うべきです」という。(『親信卿記』)

💠参考:安倍晴明と中原以忠の天文密奏
同じ日に、天文博士中原以忠宿禰も天文密奏を行った。その天変は、月が太白と度を同じくしていたという文であった。
件の二人の天文密奏は、晴明は左大臣(源兼明)の封を加えていたが、以忠宿禰は自身の封を加えていた。

◆12月6日 中原以忠が天文密奏を行う
天禄三年(972)12月6日壬辰、天文博士中原以忠宿禰が天文密奏を行った。その天変は、月が太白と度を同じくしていたという文であった。(『親信卿記』)

◆12月10日 陰陽寮が河臨祭について勘文を提出する
天禄三年(972)12月10日丙申、河臨の御禊のこと〈時明丞の書。〉陰陽寮が勘文を進上した後、内蔵寮の官人を召し、その日を伝えた。(『親信卿記』)

◆12月11日 安倍晴明と中原以忠が天文密奏を行う
天禄三年(972)12月11日、中原以忠宿禰、美濃掾同以信を差して(天文)密奏を奉らせた。申させて言ったことには「煩うところがあって奉らせました。ただし先例によると、このようなときは習学者を差し出して進上した前例がありました。件の以信が宣旨を蒙りました」という。「その天変は、去る九日、月が畢を犯しました」という。
「また、(安倍)晴明も同じく奏上させました」という。(『親信卿記』)

◆12月14日 中原以忠が天文密奏を行う
天禄三年(972)12月14日、以信が(中原)以忠宿禰の(天文)密奏を進上した。去る十一日、月が井の西反星を犯していた。(『親信卿記』)

天禄四年/天延元年(973)

◆1月9日 安倍晴明が天文密奏を行う
天延元年(973)1月9日甲子、天文博士(安倍)晴明が変異を奏上した。
その書に言ったことには「二日、白虹が太陽を匝りました。五日、白気が艮坤を亘りました。七日、鎮星が東ならびに第五星を犯しました」という。(『親信卿記』)

◆4月19日 安倍晴明が天文密奏を行う
天延元年(973)4月19日壬寅、天文博士(安倍)晴明が(天文)密奏を奉って言ったことには「去る十八日の丑時、月が斗建星を犯しました」という。(『親信卿記』)

◆5月19日 安倍晴明が暴風についての勘文を進上する
🖼️背景:天延元年(973)5月17日庚午、午時に大風・暴雨があり、宮中の舎屋が顛倒・破損した。(『日本紀略』)

天延元年(973)5月19日壬申、(安倍)晴明が勘文を進上した。(『河海抄』)

◆5月25日 賀茂保憲が東宮の方角について勘申する
天延元年(973)5月25日、賀茂保憲は東宮の方角について勘申した。「東宮は遊行年に当たるので、犯土は忌むべきです。東宮は内裏から巽の方角にあたりますが、巽は今年御遊年の方角です。陰陽書によると『遊年の方角に向かって、土を掘り起こしてはならない』とあります。犯土を行ってはいけません。ただし、修理においては別です」と申した。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)

◆6月11日 物忌の覆推/円融天皇の行幸に際して反閇を奉仕する
天延元年(973)6月11日癸巳、戌の刻、中院へ行幸が行われた。〈昨日・今日は御物忌である。そこで(安倍)晴明宿禰が覆推(占い直すこと)し、勘申して言ったことには「行うべきです」という。行幸のことがあった。ただし、候宿しない人は殿上ならびに神嘉殿の上に昇らなかった。出御するとき、侍の西遣戸より晴明宿禰を召し上げた。すぐに西において、小反閇を奉仕させた。その後、円融天皇は西戸から御出した。このことは、先例を問うものである。〉(『親信卿記』)

天延二年(974)

◆2月9日 讃岐介の下向に際し、賀茂保憲が反閇を行う
天延二年(974)2月9日の巳の刻、讃岐介の下向に際して主計頭賀茂保憲が反閇を行った。(『親信卿記』『平記』)

◆2月13日 陰陽寮が石清水行幸の日時を勘申する/四角祭を奉仕する/賀茂保憲が河臨祓を奉仕する
天延二年(974)2月13日壬辰、陰陽寮は石清水行幸を行う吉日吉時を勘申した。(『親信卿記』)
左衛門督源朝臣延光 右大弁藤原朝臣為輔
左中弁同佐理 主計頭賀茂保憲
外記賀茂保章 史大春日良辰
日時は来たる22日卯の刻。奏覧の後返し給う。しかし、件の22日は御物忌にあたる。諸卿が話し合い、他の日を勘申しなおすことになった。秋の時節を撰び申した。8月7日・8日となった。公卿は退出した。
この日は、いろいろな場所で御祭・祓が行われた。
東河において、賀茂保憲が河臨祓を奉仕した。藤原典雅が使者であった。
北野において、文道光が火災祭を奉仕した。
陰陽寮が四角祭を奉仕した。(『親信卿記』)

💡陰陽師が選定した吉日に行事が行われる
天延二年(974)8月3日、左衛門督(源延光)が仰せを奉り、石清水行幸の延引により奉幣を行う(欠字)、行幸を行う日時を勘申させた。そのまま僕(平親信)に託し、奏聞させた。(『親信卿記』)
同年8月7日、石清水行幸の延引により、幣帛を奉られた。(『親信卿記』)

◆5月13日 賀茂保憲が大乗院を点地する日時を勘申する
天延二年(974)5月13日、右大将(藤原兼家)が左衛門佐を以て伝え命じて言ったことには「大乗院の地を点じることは、先日、(藤原)典雅がこれを承った。ところが、障りを申して動かない。そなたが罷り登るように」という。仰せを奉り、事情を案内した。(賀茂)保憲朝臣が点地する日を選び申した。そこで、保憲朝臣も同じく登ることになった。内蔵寮が饗事を儲けた。罷り登らなければならない。大将が侍に仰られて言ったことには「あの大乗院は、当今、儲弐を為したときに御願を立て申した所である。御願に言ったことには『山の上に一院を建立し、十禅師を安置する』という。ところが、未だ院を立てていない。ただ、御願を修した。ところが、故阿闍梨は中山の地を引いた。また、長寿庵に少し地があった〈一説には、具足坂という〉。その本意は中山を先とし、長寿庵を後とする。この二ヶ所を見るように」という。日は、すでに晩に及んだ。そこで、保憲朝臣の宅に向かい、明日のことを案内した。

◆5月14日 安倍晴明と賀茂保憲が都から大乗院を点地する場所へ赴く
天延二年(974)5月14日、早朝、京を出て、東坂から登った。主計頭(賀茂保憲)が子・姪を引き連れて、同じく参上した〈(安倍)晴明もこの中にいた〉。勘解由長官の所領の錦宅に到着した。〈主計頭が小さい破子を持ってきた。開いて用いるためである〉。次に、坂本に到着した。相迎える僧が一人いた。次に、中山に到着したとき「律師長勇・大乗院別当清胤が相迎えに来た」という。そこで、相共に東中山を見た。次に、西中山を見た。次に、南中山を見た。次に、長寿庵を見た。すぐに、故阿闍梨の房に到着した〈饗があった〉。通例ではこのような時、衣冠を着用する。ところが今日は「見る場所が非常に多く、束帯すべきではありません。まして点地の心は諸所を見ることになります。束帯は不便でしょうか」という〈この説は、保憲朝臣が説いたものである〉。ただし、鎮めるときは必ず束帯しなければならない。また、先例を尋ねると「点地のときは、やはり束帯する」という。酉の刻頃に罷り下り、大津政所に到着した。夜に入って、帰京した。ただし、主計頭は暇を請うて坂本の辺りに留まった。

◆5月16日 賀茂保憲の大乗院点地についての勘文が奏上される
天延二年(974)5月16日、知らせを主計頭(賀茂保憲)の許に送った。右大将殿(藤原兼家)に参会し、勘文を見させた。勘文に保憲及び私(平親信)の署名を加えた。勘文に言ったことには「東中山は不吉、西中山も不吉、南中山も不吉です。ただし、北の道を改めなければなりません。長寿庵も不吉です。ただし山の僧が述べて言ったことには『便がある』ということです」という。見させた後、内裏に参った。御物忌のため、蔵人通理に託し、事情を奏上させた。

◆6月12日 安倍晴明が河臨祓を行う
天延二年(974)6月12日己丑、河臨御禊があった。〈(安倍)晴明宿禰、後式部〉(『親信卿記』)

◆8月10日 賀茂保憲が宮の庁の方角について勘申する
天延二年(974)8月10日、賀茂保憲は「今年、宮の庁は忌むべき方角にあたります。犯土・造作を行ってはいけません」と申した。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)

◆11月18日 朔旦冬至の叙位で賀茂保憲が従四位に叙される
叙位があった。朔旦冬至によるものである。(『日本紀略』)
先例に准えて、御暦の造進及び頭・博士に一階を叙す状(中略)博士のほか、造暦宣旨を蒙った輩が朔旦冬至の勤賞に預かった例
(賀茂)保憲朝臣 天延二年十一月叙従四位下(『朝野群載』)

◆12月3日 安倍晴明が天文密奏を行う
天延二年(974)12月3日丙午、(安倍)晴明に(天文)密奏を奏上させて言ったことには「鎮星が鬼第四星を犯しました」という。(『親信卿記』)

◆12月15日 賀茂保憲が物忌の覆推を行う
天延二年(974)12月15日、二十口の僧を請い、清涼殿において仁王経を転読させた。今日と明日は御物忌である。しかし、僧たちの請書を放つのが遅かったことにより、参入した者は少ない。よって昨日、賀茂保憲を召して覆推させた。勘申して曰く「外の人が参るべきです」と。源伊陟が事情を大相府藤原兼通に申した。兼通は「僧及び上卿を召すように」と仰られた。そこで、上卿・侍臣を召した。午の刻、蔵人、鐘を打たせた。その後、僧侶の人数は少なく、早くに参上してこなかった。酉の刻、僧五口が参入した。出居右近衛中将源時中・少将藤原致忠・藤原理兼が着座した。上卿が参上した。右大将藤原兼家・左衛門督・民部卿藤原文範・左兵衛督藤原住済時・左大弁源保光・修理大夫源惟正である。僧侶が参上した。御導師、寛静である。(『親信卿記』)

天延三年(975)

◆4月14日 陰陽寮が神祇官とともに賀茂祭実施の可否を占う
天延三年(975)4月14日丙辰、内裏において微かな穢れがあったので、陰陽寮は神祇官とともに賀茂祭を行うか否か占った。→実施することになった。(『日本紀略』)

💡陰陽師が賀茂祭を実施すると占った結果、祭が行われる
天延三年(975)4月19日辛酉、賀茂祭があった。(『日本紀略』)

◆6月23日 陰陽寮が翌月の朔日に日食が起こる旨を奏上する
天延三年(975)6月23日甲子、陰陽寮は7月1日に日蝕が起こる旨を奏上した。(『朝野群載』)

💡陰陽寮が報告した日に日蝕が起こる
天延三年(975)7月1日辛未、日食があった。(『日本紀略』)

◆6月26日 中原以忠が天変勘文を進上する
天延三年(975)6月26日丁卯、主税頭中原以忠が天変勘文を進上した。(『諸道勘文』)

天延四年/貞元元年(976)

◆5月14日 陰陽寮が造営・遷宮の日時を勘申する
🖼️背景:『日本紀略』天延四年(976)5月11日条:子の刻、内裏で火災があった。

天延四年(976)5月14日庚辰、陰陽寮は造営・遷宮の日時を勘申した。(5月11日に内裏焼亡があったことによる)(『日本紀略』)

◆5月20日 陰陽寮が神祇官とともに内裏焼亡について占う
5月20日丙戌、陰陽寮は神祇官とともに11日に起こった内裏焼亡の吉凶を占った。(『日本紀略』)

貞元二年(977)

◆2月22日 賀茂保憲 没
貞元二年(977)2月22日癸丑、天文博士従四位下賀茂保憲が没した。(『賀茂保憲女集』『尊卑分脈』など)

天元四年(981)

◆12月30日 追儺
天元四年(981)12月30日、追儺があった。(『小記目録』)

天元五年(982)

◆2月4日 陰陽師が円融天皇の足病を占う
天元五年(982)2月4日、円融天皇は前年の晦日に足を痛めたが、痛みが治まらないため陰陽師を召して占わせることにした。また、医者も呼ぶことにした。穢気が充満しているとのことだった。(『小右記』)

◆3月5日 賀茂光栄が立后の日時を勘申する
天元五年(982)3月5日夜、賀茂光栄は藤原遵子立后の日時を勘申した。3月11日癸卯の酉二刻となった。(『小右記』)

💡陰陽師が選定した吉日に行事が行われる
天元五年(982)3月11日条:今日、女御従四位上藤原遵子を皇后に立てた。

◆4月12日 県奉平が鬼気祭を修する
天元五年(982)4月12日癸酉、(藤原実資は)陰陽師(県)奉平に鬼気祭を修させた。(『小右記』)

◆4月15日 陰陽師が中宮の入内日を勘申する
天元五年(982)4月15日丙子、午後、(藤原実資は)殿に参った。右大将(藤原済時)が参られた。中宮が内裏にお入りになることについて定められた。
「来たる十九日にお入りになることについては、すでに定めた。しかし、賀茂祭の日程が近くにある。そこで、不便である」という。
陰陽師を召し、他の日を勘申させた。勘申して言ったことには「来月七日が吉日です」という。返し問われて言ったことには「五月はよろしくない月である。もしくは、忌避すべきだろうか」という。申して言ったことには「さらに見えるところはありません。また、四月の節は節用のときに従います」という。そこで、来月七日に定めた。民部卿(藤原文範)のもとから引馬の鞍・雑具を借りて送った。(『小右記』)

◆5月7日 藤原遵子入内に際し賀茂光栄が反閇を行う
天元五年(982)5月7日戊戌、藤原遵子の入内に際して、賀茂光栄は寝殿において反閇を奉仕した。(『小右記』)

◆5月10日 賀茂光栄が御修法の吉日を勘申する
天元五年(982)5月10日辛丑、賀茂光栄は御修法を行う吉日を勘申した。
円融天皇は寛朝に孔雀経法を修させることにした。(『小右記』)

天元六年/永観元年(983)

◆10月11日 御竈釜紛失に伴い、陰陽師が厭術を行う
永観元年(983)10月11日癸未、御竈釜の紛失に伴い、陰陽師(詳細不明)が蔵人所において厭術を奉仕した。また、賀茂・平野両社の禰宜が御竈釜が見つかるように祈祷した。(『小記目録』)

永観二年(984)

◆7月27日 安倍晴明と文道光が譲位・立太子の吉日吉時を勘申する
永観二年(984)7月27日乙亥、(藤原実資は)内裏に参った。譲位・立太子の日時を勘申させた。(文)道光・(安倍)晴明が勘申したことには「来月十六日、癸巳。時は巳・申の刻」という。〈このことは、同日・同刻である。〉その日は重日である。忌むべきであろうか。そこで、事情を覆問した。申して言ったことには「忌みはないでしょう」という。新帝はやはり忌まれるべきであろうか。申して言ったことには「平城天皇・陽成天皇は重日に譲位した。ほか二、三人の天皇は復日に譲位した。また、この例がある。忌まれるべきではない」という。まず疑慮があるため、大相国(藤原頼忠)のもとに持参して見せたところ、仰られて言ったことには「重日を勘申させたことは、非常に奇妙で驚くべきことだ。今、この勘文を早く奏聞を経させるのは如何であろう」という。「そなたは、密々に東宮に持参して事情を啓上するように」という。すぐに東宮に参り、事情を啓上した。仰られて言ったことには「まことに事の憚りがないわけではない。ただ、宜しきに従って進退されるように」という。重ねて啓上されて言ったことには「昨日、円融天皇の方から十六日に譲位が行われるべきことを承ることがありました。きっとお聞きになったことがございましょう。特に憚るところがありました。たとえ前例があっても、重・復日に至るならば重く慎み忌まれるべきです。ところが重日を勘申するとは如何でしょう、如何でしょう」という。仰られて言ったことには「また、もし吉日がなければ、十六日は何事があるだろうか」という。すぐに殿に参り、このことを申した。「左右、申すべきではないか。早く奏聞を経よ」という。外記二通の勘文を加えた。〈天慶九年の譲位の例ならびに別所における譲位の例の文である。〉内裏に参り、奏聞した。仰って言ったことには「大相国が定め申すように」という。殿に参り、この文を奉った。さらに、綸旨を伝え申した。「明日、定め申すことを奏上するように」という。「重日のことは、やはり心得ないことである」という。「大略は、まずこのことを知らせるように」という。内裏に帰参し、奏聞した。(『小右記』)

💠参考:重日について
重日とは、暦において陽が重なる巳の日と、陰が重なる亥の日であり、この日に凶事を行うのは避けられた。

◆7月28日 安倍晴明が27日の勘申について事情を説明する
永観二年(984)7月28日丙子、未の刻頃、(藤原実資は)召しによって内裏に参った。
(一条天皇が)仰って言ったことには「昨日の勘文について、早く定め申させるように」という。殿に帰参し、このことを申した。仰って言ったことには「まず東宮に参り、勘申させる日がよろしくないことを啓上するように」という。すぐに東宮に参り、このことを申した。「来月二十七日がよろしい。その日、何事があるだろうか」という。仰って言ったことには「善いことである」という。奏上されて言ったことには「来月十六日は重日です。すでに譲位は十代に渡り、重日の例がないことを調べました。陰陽家の申したことは非常に不当です。改めて勘申されるべきでしょうか」という。仰って言ったことには「同じく、(文)道光等に命じよ」という。
(安倍)晴明が参入し、道光は参らなかった。そこでこのことを奏上した。「明日、召対して事情を問うように」という。晴明が言ったことには「来月二十七日は吉日です。すぐに内裏にお入りになるべきです。かの日を選び申すべきだったので、勘文に載せませんでした」という。そこで殿に参り、このことを申した。(『小右記』)

◆7月29日 譲位・立太子の日時を勘申しなおす
永観二年(984)7月29日丁丑、今朝、(文)道光・(安倍)晴明朝臣が譲位・立太子等の勘文を持参した。〈来月二十七日、巳の刻・未・申の刻である。〉

💡陰陽師が選定した吉日に行事が行われる
永観二年(984)8月27日甲辰、円融天皇の譲位が行われた。(『小右記』)

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