【平安時代】藤原師輔の日記『九暦』の現代語訳―天慶七年(944年)
『九暦』の現代語訳
天慶七年(944)
1月7日〈庚辰〉 節会/藤原忠平の物忌
大納言(藤原)師輔が、宜陽殿の座に着した。
大外記(三統)公忠宿禰が申されて言ったことには「擁政を済ますために入京する国司及びまだ任符を賜っていない任用、また、任符を賜ってまだ国に向かっていない任用について、式部省が記し申した雑怠のある諸大夫を会に参らせるように」という。
上卿が仰って言ったことには「雑怠のある大夫は、通例によって見参に預かってはならない。ただし、任符を賜りまだ任に向かっていない国司は、先例では如何であろう」という。
公忠が申して言ったことには「去年の新嘗会節では、このような輩は内弁大納言に申しました。大納言が仰って言ったことには『今回は特別にこれを許す。今後は、未だ必ずしも許してはならない』ということでした」という。
仰って言ったことには「すでに先日定めたのだ。奏上する必要はない」という。
蔵人文範に入京の受領及びまだ任符を賜っていない任用は列に伺候させるべきである旨を奏上させた。文範が戻って伝えて言ったことには「請いによれ」という。外記を召して、このことを伝えた。
右陣が渡り終えた。近仗が座に復した。
これより前、一品式部卿敦実親王が宜陽殿の座を起ち、殿に登った。
〈この親王は、先年に宣旨があって腋から昇った。〉
大宰帥成明親王が陣に伺候したという。そこで座を起ち、事情を奏上した。〈その言葉に言ったことには「おほみこともちのつかさの親王は、夜が来て、所労により列に侍らなかったため陣に伺候した」という。〉
天皇はこのことを許した。称唯し、ただ座に居りて内豎を呼び、参上すべき旨を告げさせた。親王は上って座に着した。内膳が御膳を提供した。臣下に下給した。中務卿親王が示して言ったことには「長明親王が陣に伺候した」という。また、座を起って奏上した。その言葉は、前回と同じであった。
この日、国栖が門の外において風俗を奏上した。御盞は三献、臣下は二献。終わってから、酒勅使を賜るべき旨を奏上したという。
太政大臣(藤原忠平)は十二月二十八日から昨日まで合計八日間、門を閉ざして物忌をしていた。そこで巳時、殿(忠平)に参った。1月10日〈癸亥〉 太政大臣大饗
晴れた。殿(藤原忠平)の大饗は、毎年四日に行われていた。
ところが御物忌に当たっていたので、魚類を避けるために今日行われた。
御斎会の期間につき、精進するためである。
頭中将を差し遣わし、左大臣殿(藤原仲平)に奉られた。ところが障りを称し、参られなかった。
また、右大将(藤原実頼)も所労があって参られなかった。
私(藤原師輔)が貫首人であった。午時、事を始めた。酉刻、事が終わった。秉燭には及ばなかった。1月18日 賭弓
賭弓があったということだ。
終わってから、左右少将が奏文を持ってきた。
すぐに右少将真忠朝臣に託して奏上させた。
中務卿(重明親王)が告げたことには「先に蔵人に託して奏上させよ」という。1月24日〈丁酉〉 五月節について
天が陰り、雨が降った。
未時、内豎が来て言ったことには「蔵人修理亮藤原仲陳が仰って言ったことには『今すぐ、参入するように』ということでした」という。
申時、参入した。宜陽殿の座に着した。仲陳に参入したことを奏上させた。仰って言ったことには「今年は、五月節を行うように。去年奏上したところ、諸司の所々の損色勘文のほか、もしや加えて損するところがあるだろうか。またまた勘申させて、諸司に命じて修理させ、すべてその節の雑事により、欠怠なく勤行するように」という。
復命して言ったことには「この節について、去る延長五年以後、供奉はありません。毎年の節会で供奉する諸司は、やはり緩怠を致しました。まして年を経て、大きな節会を催し行っても、その怠りがあることを恐れます」という。仰□□所、その節のいろいろな勘文に触れ、下給されるべきだと奏上した。すぐにこの文書を給わった。
□□□右少弁源俊朝臣・大外記三統公忠宿禰が退出する前に来て問うた。□□によると「召しを蒙って参入しました。承ってこのことを知りました。弁官・外記が承って行うべき雑事は、両大夫が行いますように。ただし史は右少史海業恒を奉仕させますように」という。〈去年、上宣を□られ、諸司所々のいろいろな勘文を奉らせた。〉1月25日〈戊戌〉 五月節について
天の晴陰が定まらなかった。時々、風と雪があった。
午時、内裏に参った。修理大夫(藤原)忠文朝臣を召し遣わし、武徳殿の修理のことを命じた。昨日、給わった節文書により(源)俊朝臣に託した。
また、右近・右衛の府の築垣を修造させるようにとの事をこの弁に託し、召し伝えさせた。1月28日〈辛丑〉 五月節
少納言が参らなかったので、印書はなかった。
諸国及び鋳銭司に去年からの調庸、未進の年料銭を究進するようにとの事、□□すべき□□状を権右少弁(源)俊朝臣に伝えた。ただし、往年未進の国々はなかった。まさに□□がある前に進上するべきとの事を同じく作って載せたという。〈長案を見ると、鋳銭司の銭の事は、一つ上の□□である。そこで、このことを殿下(藤原忠平)に申した。仰って言ったことには「催符を下給するときは、次□の上を以て仰せ下すことに問題はない」という。そこで命じたものである。〉2月4日〈丁未〉 五月節
(源)俊朝臣が諸司の修理勾当の官人をほとんど定めた夾名を持ってきた。2月5日〈戊申〉 五月節
(源)俊朝臣に、官符のほかに書状を加えて国々の司を遣わすようにとの旨を命じた。2月7日〈庚戌〉 五月節
「諸国に遣わす官符の使者・衛士が出立した」という。2月8日〈辛亥〉 五月節
(源)俊朝臣が入京する国司の官符の請文〈備後・上総・近江・播磨・若狭・□□・丹波〉及び左右衛門府の進上した官符の請文を持ってきた。
また、国々に遣わす火長の差文をすぐに俊朝臣に返して授けた。2月27日 五月節
蔵人仲陳に命じて言ったことには「木工寮の申した西方の諸司の修理料の支度物を下給するように。ただし五月節により、諸司の支度の雑物については、まず惣目録を奉った後に決定して下給するように」という。3月2日 五月節
木工寮の支度のうち、米については近江国の焼亡した糒倉・兵庫の造作料米千二百斛の内を充てて行うようにとの事、宣旨を(源)俊朝臣に命じた。ただし、銭は内蔵寮が納めた長岑数種、進上した銭の内を下給する。ところが、官宣をその寮に下さなかった。疑っている間、未だ下して命じなかった。蔵人仲陳を介して、五月節による諸司の勘文及び惣目録を奏上した。3月4日 五月節
(源)俊朝臣に命じて言ったことには「数種の銭を内蔵助助縄真人の宿、あの寮に納めている。そうであればつまり、あの真人を召して下し書くに従って行うようにとの旨を伝えるように。□□」という。3月7日 五月節
蔵人仲陳が伝えて言ったことには「去る二日に奏上した惣目録・諸司の勘文を奏覧し終わった。止むことのない諸司が請い申した禄米を早く下給するように」という。左大弁と一緒に□□、その程、すぐに(源)朝臣に命じた。
また、銭米のほかにいろいろな雑物を請い申すべき所々を書き出すべき事を同じく命じた。後の行事を以て、その数ありといっても、事は細砕のため詳しく記すことができなかった。3月14日 復任宣旨
主税算師阿閉興時の復任文を奏下した。すぐに陣の腋において式部丞文範に下給した。4月1日 旬
采女が御大盤を立てた後、また、御大盤一脚を南廂西二間に立てた。〈御酒具を置く。南北□妻とした。〉
その西に下物を入れる器を立てた。その形は、瓜舟のようであった。
午刻、殿(藤原忠平)に参った。
次侍従及び出居侍従を定められた。すぐに私(藤原師輔)に託して奏上された。内裏に参った。頭中将に託して奏上させた。
申一刻、朱雀天皇が紫宸殿にいらっしゃった。
殿(藤原忠平)に参る。次侍従の欠の勘文を持ち参った。
仰って言ったことには「この勘文は、そなた(藤原師輔)が参入のついでに奏聞させよ」という。すぐに内裏に参り、右中弁(藤原)師尹朝臣に奏聞させた。仰られて言ったことには「諸卿が一緒に選んで定め申せ」という。
勘文の記載されている八人のうち六人を選び、奏聞した。仰って言ったことには「定め申したことに従って任じるように」という。外記に命じて中務輔を召し遣わしたという。左大弁が上の処分を承り、座の録事を召し伝えた。
大外記(三統)公忠が申して言ったことには「中務輔南金が参入しました」という。すぐに膝突に召し、侍従の補任簿を下給した。〈日華門から出入りした。〉5月3日 五月節 🌟後で
5月5日 五月節 🌟後で
5月6日 五月節 🌟後で
武徳殿にいらっしゃったという。朱雀天皇が御座を起った。この間、大将は伺候していなかった。そこで、私(藤原師輔)が警を称した。〈殿下(藤原忠平)が先日仰って言ったことには「大将が伺候していないときは、座に在る上臈の納言が警を称するように」という。そこで、奉仕したのだ。〉
右大臣兼右大将(藤原実頼)が四府奏を取って奏聞した。殿を下り、書杖を置いて、戻って座に着したという。この時、大納言春宮大夫。9月14日 信濃国駒牽
💠陰陽寮の記述あり
天が晴れた。この日、信濃国の諸々の牧場の御馬を牽進した。
右大臣(藤原実頼)以下が参入し、宜陽殿の座に着した。上卿が遅参し、外記政はなかった。
蔵人(藤原)敦敏朝臣が大臣に伝えて言ったことには「季御読経を行う日について、陰陽寮に命じて勘申させ、併せて請僧を定めるように」という。
大臣が有明親王に示して言ったことには「請僧を定めるときは、左衛門陣に着してはならない。親王以下は、その座に着されるべきである」という。そこで、この親王・大納言〈私(藤原師輔)〉・中納言(源)清蔭・(藤原)顕忠・(藤原)元方・参議(伴)保平・(源)兼明・(源)庶明が饗の席に着した。参議(藤原)在衡は、なおも宜陽殿の座に在った。参議(源)高明がこの陣に参会した。
三巡が終わって、少納言泉朝臣に命じて侍従大夫を召した。すぐに参着した。
外記千桂が御馬解文を持ってきて言ったことには「大臣が述べたことには『請僧を定めるときは、時刻を移すように。必ず大庭に向かって御馬を取らせるように。ただし、解文については上奏が終わってから四献の後、隠座に着せ」ということです」という。
有明親王と中納言清蔭卿との間で、囲碁の興があった。
私が外記真能を介して大臣に申させて言ったことには「先例を調べたところ、牧場ごとに東宮の牽分があります。ところが、今日はその仰せがありません。また、王卿・近衛の次将・馬頭助は通例によって馬を下給するべきです。これは、もしや宣旨に従って行うことでしょうか。宣旨を持たず行うことに当たるためでしょうか。如何でしょう」という。
大臣が答えて言ったことには「東宮の牽分については、今日は仰せ事がない。また、馬を下給することについては、宣旨の有無について、はっきりと前例を知らない」という。そこで、外記を介して蔵人を喚ばせた。蔵人(藤原)遠規が来た。この事を奏上させた。
今日、もしや東宮の牽分があるべきであろうか。また、右大臣及び参議在衡朝臣が事に就いて陣頭に伺候した。馬を下給することは、如何であろう。
仰って言ったことには「東宮の牽分は必ずなければならない。また、陣に伺候している人々に馬を下給することについては、前例に従って行うように」という。外記有象に命じて、陣に伺候している公卿に馬を下給した前例を調べさせた。王卿は、共に南大庭の兀子の座に着していた。〈この座は、建礼門の東庭に在る。〉弾正尹元平・兵部卿元長の親王が追って座に着した。〈両元親王は、召しによって参入した。有明親王は自ら進んで参入した。前例を聞いたところ「式日であれば、召しがなくても参入する。期日が延期したときは、召しがなければ参入しない」という。〉
外記を以て御馬解文を上卿の前机に置いた。左右近衛が御馬を牽いた。
先例では、最初の御馬は牧監は牽く。ところが、今日は牽かなかった。
その理由について、外記真能に命じて主当の寮に問わせた。
真能が申して言ったことには「左馬頭朝頼朝臣が申して言ったことには『今日の御馬の迎えは、助有時朝臣です。ところが、上卿の勘事があったので、この庭に伺候しませんでした。牧監が伺候してない理由は、あの朝臣が知っているのではないでしょうか。必ず仰せがない前に、このことを執り申さなければなりません。ところが、申しませんでした。怠りは、もっとも寮官にあります」という。
三度巡らせた後、命じて言ったことには「乗れ」という。
その後、主当の寮の行事を立たせた。立ち終わった。主馬首の名を召し、取って牽き分けさせた。次に近衛府・馬寮を召し伝えることは、通例のとおりであった。
この間、外記有象が申して言ったことには「陣頭に伺候している公卿に馬を下給した前例は、今のところ見えません」という。そのついでに命じて言ったことには「今日、御馬を臣下に下給する前に所司に下給する。その数は如何であろう」という。申して言ったことには「ある年は、各五疋を下給しました。ある年は、各十疋を下給しました。去年の例では、各五疋でした」という。そこで、各五疋を取った後、所司に命じて留めさせた。ところが、そのことを覚えておらず、六疋を下給した。そこで外記を介してはっきりと命じさせた。次に王卿・近衛中少将・馬頭助に馬を下給する。その後、所司が馬を取り遣わした。
内裏に参り、慶賀を奏上した。〈その場所は、温明殿の巽の角の庭である。北面西上。〉事が終わって、各々、退出した。ただし、私は藤壺に着して宮の所充のことを定めた。9月15日 物忌
物忌のため、戸を閉ざした。
蔵人(藤原)遠規が示して言ったことには「昨夜、右大臣(藤原実頼)が内裏に伺候していた公卿に馬を下給したことを驚き奏上しました。仰って言ったことには『下給した理由は、大納言藤原(師輔)朝臣に伝えた』ということです」という。
この事は、すこぶる昨夜の仰せと異なる。けれども、仰られたことがこのような内容だったので、有象を召し遣わして右左寮を以て取手の内、右大臣と在衡朝臣に下給することを召して伝えさせた。右の御馬を右大臣に下給させた。あの寮の御監だからである。左の御馬を在衡朝臣に下賜させた。
後日、殿下(藤原忠平)が仰って言ったことには「信濃の馬を臣下に下給したことは、前例があるとはいえ、やはり仰せに従って下給するべきである。もし仰せがなければ、上卿は様子を伺って進退するべきである」という。10月3日 興福寺維摩会について
大閤下(藤原忠平)が事のついでに仰って言ったことには「維摩会聴衆四十人のうち、専寺十人、遣る三十人を遍請した。専寺は他寺の欠を請うじなかった。専寺の僧は、専寺の本の数が多いためである。前例では、このようであった。ところが、今、行うことは後れ請じるように。他の寺の僧が特に専寺の僧に勝らないとき、便りに会寺の明僧を請用する。他の寺の明僧が先請に預からないことがある時は、その人を請用する」という。10月9日
仰って言ったことには「延喜十一年正月一日、日食のため廃務であった。〈私は、その頃、職曹司に住んでいた。〉親王・公卿・侍従大夫など数十人が職曹司に来て向かった。
盃酌が頻りに下り、すでに酩酊に及んだ。春宮の御服〈阿波国絹〉を召し、集会の侍従以上に下給した。これは、元慶の前例によるものである。
その例は、故八条式部卿〈本康〉の私記に見える。その日記に言ったことには『元慶六年元日、節会を停止した。天皇は、二日に御元服が予定されている。そこで元日の宴を停め、二日に宴会を行うことになった。あの朔日は、王卿・諸大夫が職御曹司に参会し、数盃の後、太政大臣が語って述べたことには「昔、女帝が治天に在った時、弓削法皇は意に任せて大蔵物を下して用いた。今日、内蔵寮の御服を下し、大夫以上に下給するのは如何であろう』という。王卿が申して言ったことには「この事は、甚だ面白いことです」という。親王以下に御服を下給し、各々分散した』という。この日記の文によって、准えて行ったものである」という。
また、仰って言ったことには「同じ日記の文に言ったことには『あの日、太政大臣が式部卿〈仁和先帝〉に語って言ったことには「中務親王〈本康〉の妻の実家は、蜷淵氏である。長い時代を経て、もっとも哀憐するべきである。今年、事情を奏上して叙位に預かろうと思う」という。式部卿はこのことを私に告げた。私はすぐに座を起ち、板敷きの上であったが再拝した。この年、叙位に預かった。これはつまり、太政大臣の極恩によるものである。そこでその事を申すため、後日、職御曹司に参り向かった。ところが「太閤(太政大臣)は外出しています」ということだ。徒然として帰り去る間、基中将と近衛御門に逢った。私が言ったことには「今日参入したのは、妻の実家の慶賀を申すためである。ところが太閤がおらず、このことを申すことができなかった。縦容のついでに参り伺候したことを申すように」という。中将が答えて言ったことには「太閤が談説のついてに述べたことには『昔、忠仁公の妻の一世源氏が叙位に預かった日、嵯峨院に参り、慶賀を奏上しました。太上天皇が勅して言ったことには「妻の慶びによって夫が賀した例を聞いたことがない」ということです』という。」という。私はこの告げを聞いて、このことに驚いた。この事は、先帝の御時に奏聞した。仰って言ったことには『このような故実は、もっとも珍重するべきである。ただし、今は妻の慶びにより、その夫は必ず賀を奏上する』という」という。10月11日 旬
仰って言ったことには「寛平・昌泰のとき、天皇が旬をお治めになった日に南殿にいらっしゃることについて、蔵人もしくは近衛少将が陣頭に来て告げて伝える。ところが延喜の初めの頃、故左大臣(藤原時平)は諸事を故実に因准して申し行い、古日記により内侍に人を召させた。その後、今に従い行った」という。12月11日
仰って言ったことには「延喜六年、先帝は朱雀院において法皇四十算を祝賀された。その日、法皇の御座はしばらく西対に設けられていた。寝殿の装束が終わって、天皇は西渡殿に進み、法皇を迎えた。法皇が渡殿を経由して東へ行く間、天皇は跪き、法皇は屈んで歩いた。時の人が言ったことには『今上の礼儀は、すこぶる便宜のないことだ〈天皇が跪くことは、左大臣(藤原)時平が奏上したものだ。〉』という。
同十六年、同院において五十の御慶を行われた。今回、天皇は進み向かわなかった。私を遣わし、御座にいらっしゃることを聞かれた。このことは、詳しく先帝の御日記に記されているだろうか」という。
また、仰って言ったことには「堀河太政大臣は元慶・仁和の間、枇杷殿に住まわれた。その時、八条式部卿及び左右大臣が殿下に参詣した。あるいは自ら中門に客を迎え、あるいは人を介して示させて言ったことには「束帯の間は、御座に着されますように」という。
また、仰って言ったことには「故南親王〈貞保〉が語って言ったことには『堀河大殿門が述べたことには「有品親王が無品親王の家に来た。無品親王が有品親王の家に来た時、人を介して座に着するべきだと示した。大臣が一品親王の家に来た時、主人の親王は自ら進み出て迎え、一緒に座に着した。大臣が来た時は自ら出て向かい、座に着されるべきだと示した」という』という」という。
また、仰って言ったことには「大臣饗の日は、請客使に伝える言葉に言ったことには『殿に詣で、上達部が来たことを申すように』という。〈ただし、下臈の大臣が上臈に示す言葉にはすこぶる礼詞があるべきであろうか。〉
また、仰って言ったことには「昔、堀河院大饗の日、致仕大納言〈冬緒〉を召し遣わした。大納言は三献の後、参入した。庭中に出て再拝し、着座した。時の人は、このことに感じ入った。今は……」という。
殿下(藤原忠平)は、去る十月二十四日からご病気が甚だ重い。けれども、すこぶる平癒されている間は、必ずこのような故実を仰られた。閏12月2日〈庚午〉 荷前
荷前があった。建礼門の南大場において行われた。
午二点、朱雀天皇がいらっしゃった。
午四点、使者の公卿が幣物を舁いて御前に立った。
使者は、参議以上の八人である。ところが、参入したのは四人〈大納言(藤原師輔)・左衛門督(藤原顕忠)・藤中納言(藤原元方)・民部卿(藤原忠文)〉であった。障りを申したのが四人〈源中納言(源清蔭)・右衛門督(源高明)・大蔵卿(伴保平)・源宰相(源義明)〉であった。
そこで、左兵衛督(源庶明)・藤宰相(藤原師氏)を召し遣わした。
ところが、左兵衛督は参入したものの、藤宰相は病のため参らなかった。使者の人が足りなかったので、班幣使左大弁を召し遣わした。すぐに参入した。なおも使者が二人足りなかった。このため、民部卿と左大弁が手を兼ねた。
また、使者の侍従十人が障りを申した。通例により、官掌を遣わして実検させた。使者が戻ってきて、申して言ったことには「待賢門に伺候している者は、景行王・朝頼朝臣・国珍朝臣の三人です。その他は、参って来ていません。伝え設けた大夫は十人です。ところが、五人は参入したものの、五人は参りませんでした。〈東宮が荷前にいらっしゃった。〉
今日、日の上は右丞相(藤原実頼)であった。
未一点、幣を執る者が幣を挙げて退出した。東宮が荷前にいらっしゃった。今日、同様に行われた。その儀式は、凝華舎の南庭に所司が軽幄を立て、御座を設けた。東面である。
午時、殿下(藤原忠平)が幄の御座に着した。
御盥洗の後、権亮平随時朝臣・備後権守藤原朝臣清正〈殿上人〉が幣物の案を舁き、土敷の上に立てて啓上した。
内舎人清原至行が取って幣の箱を下げ、案の下に置いた。殿下が拝し奉った。終わってから使者が参入し、案を舁いて退出した。内舎人もまた、これに従った。殿下は、殿に帰った。使者が庁の饗座に着した。庁官・所司が参入し、装束を撤収した。〈喚継二人が役仕した。大舎人・内豎に准えたのである。〉
東宮の荷前の前例は、もっぱら所見がない。また、宮式に載せていなかった。そこで、大夫が事情を太政殿下に執り申して議定したのである。詳しいことは、東宮雑事日記に見える。閏12月9日 🌟後で