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陰陽師たちの活動記録:陽成天皇時代

平安時代の陰陽師たちの活動記録をわかりやすく簡単に解説します。陽成天皇時代の陰陽師たちの活動を紹介しています。
安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史の中で活躍してきたことがわかります。

その他の時代の陰陽師たちの活動記録は以下のマガジンで確認できます。

活動記録

元慶元年(877)

◆1月3日 弓削是雄が外従五位下に叙される
元慶元年(877)1月3日乙亥、陰陽権助兼播磨権少目弓削連是雄が外従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

◆2月29日 陽成天皇の遷御に際し、陰陽家の新宅作法が用いられる
元慶元年(877)2月29日辛未、申の刻、陽成天皇が東宮から仁寿殿にお移りになった。童女四人。一人が燎火を持ち、一人が盥手器を持った。二人が黄牛二頭を牽いた。御輿の前で陰陽家の新居を鎮める法を用いた。公卿が内裏に宿侍した。三日間出なかった。(『日本三代実録』)

◆4月1日 夜間の日蝕について弓削是雄が意見を述べる
元慶元年(877)4月1日壬申、夜丑一刻に日蝕があった。中務省は予め陰陽寮が四月朔日の夜に日蝕があると言ったことを奏上していた。
詔命により、明経・紀伝・明法等の博士が夜に日蝕がある場合に廃務とすべきか否か議論した。
陰陽頭従五位下兼行暦博士越前権大掾家原朝臣郷好、外従五位下行陰陽権助弓削連是雄等が言ったことには「天長八年四月一日の夜、日蝕がありました。予め奏上しませんでした。朝廷はその由を問いました。暦博士外従五位下刀岐直浄濱が言ったことには『陰陽寮の壁に書いてあったことには、夜の日蝕は奏上しないとありました。そこで予め奏上しなかったのです』ということでした。参議従三位行刑部卿兼下野守南淵朝臣弘貞が陰陽寮に仰って言ったことには『国家の急務である。どうして明朝を待つのか。夜といえども日蝕である。奏上しないことがあってはならない』ということでした。謹んで案じるに、およそ日月の蝕は陰陽の虧敗の象徴です。ゆえに日蝕があれば徳を修め、月蝕があれば刑を修めるのです。経典に言ったことには『日蝕が慎むべきところに昼夜の区別はない』といいます。また、壁書については根拠がなく、寮式にもこのような文章はありません。それゆえ、天長八年の例より後は事前の奏上に漏れがあるのは道理ではないということになりました。これにより、夜間の日蝕でも予め中務省に申し送るようになりました」という。(『日本三代実録』)

◆12月25日 弓削是雄らが宿禰姓を賜る
元慶元年(877)12月25日辛卯、右京人外従五位下行陰陽権助弓削連是雄が宿禰姓を賜った。
また、右京人外従五位下行陰陽助日下部連利貞が宿禰姓を賜った。
近江国浅井郡人陰陽権充正八位下秦経尚が山城国葛野郡に移管した。(『日本三代実録』)

元慶二年(878)

◆2月27日 陰陽寮が怪異を占う
元慶二年(878)2月27日癸巳、越前国が言ったことには「氣比大神宮祝部等が申して言ったことには『神宮が忽ち火災に見舞われ、鷺が宮に走り入ってきて、失火はありませんでした』ということです」という。
陰陽寮が占って言ったことには「神社に穢があるので怪異の祟りとなって現れたのです。彼の国には疫癘・風水の災いがあるでしょう」という。この日、国宰に下知し、神宮を酒掃させて仏教を転読させた。(『日本三代実録』)

◆9月7日 陰陽寮が怪異を占う
元慶二年(878)9月7日己亥、ある鳥が肥後国八代郡の倉上に集まった。また、宇土郡正六位上蒲治比〓神社前の河水が赤くなっていた。緑の辺りの山野の草木は枯れて厳冬のようであった。神祇官と陰陽寮が卜筮して言ったことには「彼の国に風水火疾があり、災いをなすでしょう」という。(『日本三代実録』)

元慶三年(879)

◆11月25日 朔旦冬至
元慶三年(879)11月25日庚辰、陰陽博士山村曰左得道が外従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

元慶四年(880)

◆2月28日 陰陽寮が地震を占う
元慶四年(880)2月28日壬子、地震があった。まず、隠岐国が言ったことには「兵庫が振動し、三日後には庫の中が鼓のように鳴動しました」という。
陰陽寮が占って言ったことには「遠方の兵賊が北方より起こります」という。
この日、太政官符を因幡・伯耆・出雲・隠岐等の国に下し、慎んで厳重に防護させた。(『日本三代実録』)

◆11月1日 御暦奏
元慶四年(880)11月1日辛亥、陰陽寮が御暦を奏上した。通例の通りであった。(『日本三代実録』)

◆12月7日 陰陽寮が地震を占う
元慶四年(880)12月7日丙戌、陰陽寮が奏上して言ったことには「地震の徴があります。併せて兵賊・飢饉・疫病を慎むべきです」という。
大和・伊賀・伊勢等の国に下知し、行宮を造らせた。伊勢斎内親王(識子)が宮を出て帰京した。左右の検非違使が左衛門府の南門において、詔を以て獄に繋がれていた囚人を出した。この日の夜、戌の刻から子の刻まで地震が二度あった。(『日本三代実録』)

元慶五年(881)

◆11月1日 御暦奏
元慶五年(881)11月1日乙丑、陰陽寮が明年の御暦を奏進した。通例のとおりであった。陽成天皇が紫宸殿にお出ましにならなかったので、内侍所に託して奏上した。(『日本三代実録』)

元慶六年(882)

◆1月7日 叙位
元慶六年(882)1月7日庚戌、陰陽助兼播磨権大掾日下部宿禰利貞・陰陽権助権備前権掾弓削宿禰是雄・権暦博士大春日朝臣氏主が従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

◆11月1日 御暦奏
元慶六年(882)11月1日己巳、陰陽寮が明年の御暦を奏進した。通例のとおりであった。陽成天皇が紫宸殿にお出ましにならなかったので、内侍所に託して奏上した。(『日本三代実録』)

元慶七年(883)

◆7月13日 陰陽寮が怪異・天変を占う
元慶七年(883)7月13日丁丑、六月二十七日に鷺が大極殿の鵄尾に集まった。今月三日には霖雨によって河水が溢れ、内外に愁いがあった。陰陽寮が占い奏上して言ったことには「主上に疫病の患いがあります。また、天下に風水の憂いがあります」という。(『日本三代実録』)

◆11月1日 御暦奏
元慶七年(883)11月1日甲子、陰陽寮が御暦を奏した。ならびに太政官において頒暦を奏した。通例のとおりである。(『日本三代実録』)

◆12月23日 陰陽寮が荷前について占う
元慶七年(883)12月23日乙卯、諸山陵墓において荷前の幣を奉った。公卿は勅を奉り、建礼門前において使者が出立した。この日は国忌であった。
陰陽寮が言ったことには「荷前の儀礼を行うのには避けるべきですが、今日のほかに吉日はもうありません。そこでこの日を用いました」という。(『日本三代実録』)


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