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【平安時代】重明親王の日記『吏部王記』の現代語訳―天慶二年(939年)
吏部王(重明親王)の日記『吏部王記』の現代語訳です。
長いので年代別に分けています。
今回は天慶二年(939年)の分です。
天慶二年(939年)
1月
1月4日 太政大臣大饗
★『年中行事秘抄』正月①
太政大臣(藤原忠平)の饗所に詣でた。主公(忠平)は病を称し、客亭から出なかった。
★『年中行事秘抄』正月②
主人〈大相国(藤原忠平)〉は出てこなかった。
先日、巡察を三位以上の者の家に遣わした。他司の人を糾弾し、そのときの事を集会した。1月14日 御斎会内論議
★『御質抄』末
右少将良岑朝臣義方が、衆僧が参入したことを告げた。すぐに酉一刻、綾綺殿に参上した。装束は清涼殿の旧儀と同様であった。ただし、東西が変わって殿使に従った。
少僧都貞崇が香水を撒いた。律師仁教が交名を読んだ。「論議が終わった後、施物を下賜した」という。1月16日 踏歌節会
★『西宮記』大永鈔本・第一冊・恒例一・正月下・十六日女踏歌
「主上(朱雀天皇)が南殿にいらっしゃった。右大将(藤原)実頼卿が内弁を行った〈今日、初めて行った〉」という。
治部卿当幹は、老衰のため列に並ばず、陣の外に伺候していた。
私(重明親王)が問うたことには「大将が奏上して召すべきであろうか」という。大将が言ったことには「去る一日、見参簿に預かりませんでした。もしかすると、免じられたのでしょうか」という。しばらくして、大将が軒廊にいた。私が言ったことには「治部卿について大外記清方に問うたところ、申して言ったことには『見参簿を奏上しなかったのは、道理にかなっていないとの仰せがあった』ということだ。そうであればつまり、この事を奏上しなければならない。ただし今日は、民部卿の障りによって急遽内弁を行った。奏辞の例を詳しく知らない」という。答えて言ったことには「ある朝臣は、所労があったときは列に伺候せず、陣の外に伺候しました。これが先例です」という。「大将はすぐに奏上し、治部卿を召した」という。1月24日 藤原忠平の六十算賀
★『西宮記』前田家本・巻十二甲・臨時己・賀事・天皇賀大臣算事
修理職が太政大臣(藤原忠平)の六十算賀を行った。
観音像一体を描き、寿命経六十巻を書写した。〈蒔絵の革筥に納めた。〉
興福寺において、六十僧の講説を請うた。〈七僧が、この中にいた。〉
諷誦銭は六十貫文、また、供僧は五百口であった。「思うに、相公(忠平)がしばらく職検校であったためである」という。
2月
2月7日
★『醍醐寺雑事記』
右中弁源朝臣公忠が来て言ったことには「醍醐寺三昧堂の料物を、朱雀院の庄田に入れるように」という。命令により、大納言(平伊望)が大相公(藤原忠平)に申請した。すぐに命令を報せて言ったことには「行うことを聴し、必ずしっかりとこの事を承るように」という。ただし、諸親王の意趣はわからない。一両の諸王たちにその旨を告げた。2月8日
★『醍醐寺雑事記』
「使者の宮内少輔源朝臣済が大相公(藤原忠平)の命令を以て、醍醐寺三昧料を朱雀院の庄田に施すことになった。先ず五・六・七・九親王に相談して遣わしたところ、皆喜んで許可したという報せがあった」という。2月14日
★『醍醐寺雑事記』
公忠朝臣を招き、諸親王の申した醍醐寺三昧料の報せを大相公(藤原忠平)に申させた。
4月
4月1日 旬
★『小野宮年中行事』四月
雨が降った。
上卿は、右大将(藤原)実頼であった。
少納言源興平は、雨儀のため軒廊に立った。
北を向いて見参簿を唱えた。〈西を向かなければならない。〉
王公卿が宜陽殿の壇上に立ち、西を向いて拝舞したのは通例のとおりであった。
★『北山抄』巻第九・裏書
曲が終わって、すぐに共に退音声を奏上し、退いた。
左衛門督(藤原)師輔卿が言ったことには「主上(朱雀天皇)はすでに還御しました。これ以上退音声を奏上する必要はありません。延長六年のときは、奏上しませんでした。これは、早々に還御したからです」という。
★『小右記』長徳三年十月一日条による
南殿に出御しなかった。
少納言源興平は、雨儀のため軒廊の間の北に立って見参簿を唱えた(西を向かなければならない。)
王卿が宜陽殿の壇上に立って西を向き、拝舞した。4月14日 賀茂祭
★『西宮記』大永鈔本・第二冊・恒例二・四月・賀茂祭事
賀茂祭があった。
終日、大雨が降っていた。
内親王が、賀茂社に参った。ところが、鴨川が溢れていて渡れなかった。そこで、移動して車に就き、官幕の下で休息をとった。明日、院に還る。
内侍もまた、渡らなかった。ただし近衛府・内蔵寮・中宮の使者は太政大臣(藤原忠平)の白河家の船に乗って川を渡り、賀茂社に参った。〈相公(忠平)の命令による。〉奉幣した。その後、院に参った。「饗禄を下給したのは、通常のとおりであった」という。
5月
5月27日 鴨川堤を巡検
★尊経閣本『吏部王記』
この日、右大将(藤原)実頼卿・左衛門督(藤原)師輔卿・右衛門督(源)清蔭卿・左大弁(源)是茂朝臣・刑部卿(藤原)顕忠朝臣が弁・史以下を率いて鴨川堤の要害の地を巡検した。
公卿以下は騎馬で一条を起ち、九条の傍の堤まで巡検した。太政官厨が三条末の河原において幄を立て、饗宴を設けた。盃を勧めた。川の北側が決壊していた。造堤使が造った堤である。
7月
7月27日 賭弓/相撲召合
★『西宮記』大永鈔本・第一冊・恒例一・正月・十八日賭弓・裏書
左衛門督(藤原)師輔が陳べて言ったことには「賭弓は、承元一初、内裏の射場に奉仕しました。以前は、豊楽院にいらっしゃり、これをご覧になりました。的を少将に託しました。伺候されるときは、高座の下壇の上に伺候しました」という。
★『西宮記』前田家本・巻四・年中行事・七月・十六七日相撲召仰
「相撲召合があった」という。
外記が左大臣(藤原仲平)に申して言ったことには「左兵衛佐の二人が、どちらも理由があって出居を奉仕しませんでした。年頃、公卿が督を兼ねていました。そこで、代官を以て行います。今は、公卿ではありません。そもそも先例では、承和八年は右兵衛督橘永名がこれを奉仕しました。職掌を調べると、督・佐は一に同じでした。そうでればつまり、奉仕させなければなりません」という。
大臣が仰って言ったことには「奉仕させるように」という。
左大臣が左奏を奏上した。〈大将である。〉左衛門督が右奏を奏上した。〈大将が参らなかったからである。〉
督(源)庶明朝臣が出居を奉仕した。位次によって、少将の上にいた。ただし、急遽欠腋袍がなかったので、縫腋を服した。内侍が大臣を召した。大臣は御前に伺候した。あれこれの理由があった。
しばらくして、左大臣が直に御簾に入って伺候した。先例では、御簾の内側に伺候する者は、殿の後ろから参入した。ところが今は、直に入った。疑問に思うべきことである。もしかすると、密かに召されたのであろうか。
「左大臣は大納言(平)伊望を召して御前に伺候した」という。
閏7月
閏7月13日 相撲召仰
★『西宮記』前田家本・巻四・年中行事・七月・十六七日相撲召仰
右大将(藤原実頼)の申請により、あの家に詣でた。
相撲人は饗所に帰った。寝殿の南廂に客座を設けた。下母屋の簾に四尺屏風を施した。中将・少将は南面に座った。〈土敷・円座を用いた。〉公卿の座は北を向き、亜将の座に対した。
主人は公卿の座の上にいた。〈菅円座を用いた。〉東廂の西向きに、垣下の四位の者の座を敷いた。南欄の東頭に北向きに将監の座を下給した。東廊下に諸大夫の座を設けた。南簾に張席を施した。東南の庭に近い寝殿に、酒部の平張一宇を立てた。南庭の東の辺りの乾・巽の方角を端として、平張二宇を並べて立てた。東を相撲人の座とした。西を官人の座とした。〈後ろに対した。〉
その餞客及び垣下の机は、各一前であった。「私(重明親王)が到着した」という。
十巡した後、少将が主人の辺りに進み、相撲を奉仕することを申請させた。主人はこれを許した。すぐに張席を撤去し、最手三番を進め、及び相撲人が進んだ。客・主人が共に南欄に就いた。すぐに隠座の肴を勧めた。〈折敷は、各二枚であった。〉
相撲が終わって、俳優一番があった。次に近来が昇って布机を積み、階の前に立った。「すぐに最手利生・後二有利に布引を作らせる」という。その後、家司が名を唱え、相撲人に禄・布を下賜したことには、それぞれ差があった。最手、疋絹を加え、次に近衛以上の者に下給した。その府生以下を殿下に召し、これを下給した。主客が絃歌を行ったのは、数声であった。「中将以下に纏頭した。〈中将は、女装束、各一襲であった。〉次に垣下に纏頭した〈親王は女装束を用いた。主人が私の禄を授けた。〉」という。
8月
8月14日 章明親王元服
★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・親王元服・裏書
章明親王が元服した。そこで、あの家に詣でた。
元利・常明・長明親王、民部卿(平)伊望・右大将(藤原)実頼・(源)是茂・(藤原)顕忠が同じく参会した。
寝殿の母屋の当戸に、西向きに加冠の座を設けた。〈土敷二枚及び茵を用いた。〉
南廂の北面に王公の座を設けた。西対を諸大夫の座とした。南庭に酒部の平張を設けた。また、屯食十二具を立てた。
酉二刻、巾櫛の具を配置した。〈二階。唐匣・櫛匣・泔盃・冠筥及び脇息である。〉
冠者の座は加冠の座の西頭に、仮に屏風を施した。冠者は白橡の袍を着用し、髪を結って座に就いた。
私(重明親王)は左少将朝忠朝臣を召した。理髪の後、二卿の加冠を催した。本家の意は、右大将にあった。ところが、大将は民部卿に譲った。民部卿は固辞した。右大将は、すぐにこれを加えた。その後、親王が後房に入った。すぐに匣具及び屏風を撤去し、饗宴を設けた。加冠の者の餞には、折敷九枚を用いた。〈打敷があった。〉
王公は、それぞれ折敷四枚であった。冠者の餞には、二机を用いた。一両巡した後、献物六十捧〈家の厨が準備した。〉立ち定め、直ちに名を唱えたのは、通常のとおりであった。五、六巡した後、私は帰った。8月20日 皇太后が藤原忠平の六十算を祝う
★『西宮記』前田家本・巻十二甲・臨時己・賀事・天皇賀大臣算事
皇太后宮が太政大臣(藤原忠平)のために、六十算賀を法性寺において法会を設けた。銀の薬師仏一体を造り、金字寿命経六十巻を書写した。請奏し、法服があった。諷誦の調布は、六百端であった。内裏は、三百端であった。左大臣(藤原仲平)は百端であった。康子・成明親王は、それぞれ絹二十疋であった。講説の後、職が別の場所において大相公(忠平)の餞を勧めた。「沈香の折敷六枚〈土器の文様〉を準備した。同様に、瓶子があった」という。
11月
11月25日 新嘗祭
★『政事要略』巻二十六・年中行事・十一月二
新嘗会があった。
主上(朱雀天皇)が南殿にいらっしゃった。殿上に簾を施した。
まだ三献の後に及んでいなかった。
小忌式明親王・中納言源是茂卿が座に就いた。
先例では、三献に預かっていない者が奏聴し、昇殿する。今回は、奏聴しなかった。疑問に思うべきことである。
左大臣(藤原仲平)が退き罷った。そこで、左衛門督(藤原)師輔卿が内弁を行い、三觴の後、簾の下に就いた。内侍に託し、諸大夫に酒を下賜するように奏上した。〈北の簾の南端から。〉
式部卿(敦実)親王が殿上を降り、大歌を召した。親王は宣旨により、列に就かなかった。群臣の座を定めた後、昇殿した。また、初めて輦車に乗り、宮中に入った。〈「美福門の掖から入った。東宮の西門に到り、輦車を降りた」という。〉
左衛門督に問うて言ったことには「旧説では、見参簿を奏上させたとき、東の第三柱の下に退いて伺候する。これはつまり故左大臣・昭宣公の説である」という。ただ、母屋からの柱の数及び庇からの柱の数については詳しく知らない。
ある説によると「廬の思道の下に立つ。母屋の障子の東側の第三柱の東側に思道の像がある。そこで、この柱の下に立つ。ただ、寛平年間に遮障し、屏風を施した。そうであればつまり、思道の弁じ難い所を知り終えた。これはつまり、見参簿を奏上したのである。今、御簾の内側により、御酒勅使及び式部卿を召したことは、内侍に託して奏上しなければならない。報せを待っている間、あれに准じるべきであろうか。もしかすると、見参簿にないのであれば、柱の下に就くべきではないだろうか。先例では、如何であろう」という。
答えて言ったことには「同じく、この事は奏事、報せを待つ儀、どうして准じないことがあろうか。ただし、故右大将保忠卿が御酒勅使について奏上させたとき、柱の下にいなかったが、やはり差し退いて、報せを待っただけである。大歌の一節を奏上した後、内弁が簾の下に就いて式部卿を召すように奏上させた。〈報せを待っている間、差し退いてこの事に伺候した。初めの御酒勅使のときは、退いて伺候した。〉」という。
参議藤原元方朝臣にこれを喚び出させた。到着して、大歌を召した。台の北側において勅を待つこと及び奏状について疑問があった。すぐに左衛門督に示して言ったことには「延長年間、あるいは勅があってこれを召した。承平年間、勅がなくても内弁が近仗に伝えさせてこれを召した。左衛門督はすぐに参議を介して近仗に伝えてこれを召した」という。11月27日 諸社奉幣
★『西宮記』前田家本・巻十二甲・臨時己・賀事・天皇賀大臣算事・裏書
「太政官は、太政大臣(藤原忠平)のために六十社に奉幣した」という。
12月
12月13日 太政官が藤原忠平六十算賀のために諷誦を修する
★『西宮記』前田家本・巻十二甲・臨時己・賀事・天皇賀大臣算事・裏書
「(太政)官は、また、同じく(六十算)賀のために六十寺において諷誦を修した」という。12月29日 警固/固関
★『山槐記』治承四年十二月二日条による
「宣旨を下して諸陣を警固する」という。
「十五ヶ所の要害の地に、それぞれ固関使を遣わす」という。