【平安時代】藤原師輔の日記『九暦』の現代語訳―天暦六年(952年)
『九暦』の現代語訳
天暦六年(952年)
4月30日 雷鳴陣
雷電は、甚だ盛んであった。
雷雨を犯して参入した。弓箭を帯び、御前に伺候したという。
蔵人澄景が解陣するようにとの旨を伝えた。すこぶる本座に退いた。召し伝えたことは、通例のとおりであった。5月27日 位記召給
位記召給を行ったという。
内記は伺候しなかった。そこで、外記がこれに代わった。7月5日 弁官申文
弁官申文は、通例のとおりであった。
ただし、少納言が遅参した。そこで、法申した後、必ず印す給文がない旨を申さなければならない。ところが、外記が召使に申させて言ったことには「前蹤では、両度法申した例はありません」という。申したことは、すでに故実を忘れている。そこで、催し伝えて申させた。南申文はなかった。両大弁が参らなかったからである。7月21日 相撲還饗について
助縄真人が左閤(藤原実頼)の御使として来て言ったことには「日頃、頻りに天変があります。また、相撲還饗について、もしかすると御忌日の前にあれば、隠座は必要ないでしょうか。また、相撲すべきではないでしょうか」という。8月15日 朱雀上皇崩御
「太上法皇(朱雀上皇)が崩御された」という。
「赦令については、先例を調べて行うように」という。皇考ではない天皇は、崩御される前に恩詔がなかったことについて、内記が勘申した。そこで、奏聞した。命じて言ったことには「去る延長の太子の時は、赦があった。准えて少赦を出すように」という。(菅原)文時に命じた。11月1日〈癸丑〉
蔵人頭(藤原)有相朝臣が来て、東宮〈桂芳坊〉の仰せを伝えて言ったことには「明日、亥の刻、中宮(藤原穏子)が弘徽殿に移御することになっている。例により、事に縁る諸司を召し伝えるように。ただし、戌の刻以前に伺候させよ」という。
午時、左仗の座に着し、外記武並に命じた。11月2日
酉時、主殿寮に参った。〈大皇大后は、去る八月二十日に大炊御門宮からこの寮に移御した。〉
ところが、親王・公卿が伺候する座がなかった。そこで宮司を召して問うたところ、申した旨は「御修法を奉仕するため、雑舎が悉く塞がっていました。このため、座の儲けがありませんでした」という。これは、宮司の用意がなかったのである。たとえ舎屋がなかったとしても、所司に命じて幄・床子を儲けさせなければならない。刻限以前に参入した王卿は、何処に伺候するのであろうか。便宜がなかったので、時刻を待つ間、大内裏に参入した。雅信・好古の両相公が相従った。私(藤原師輔)はついでに桂芳坊に留まった。両相公は左近陣に着した。「これより前、納言・参議がこの座に伺候していた」という。ただし「吏部王(重明親王)が達知門の外を徘廻していた」という。
亥一刻、参り進み、前庭に伺候した。
宮司が事前に南簀子敷・蔀を□却していた。御輿を寄せようとして、障りがあったためである。
二刻、輿を準備した。掃部寮が伺候していなかったため、縁道を敷くことができなかった。輿にいらっしゃった。〈中務大輔博雅朝臣、命婦為善子が輿□□伺候した。〉
陰陽助平野宿禰茂樹が反閇を奉仕した。
終わってから、御輿が南門を出て南へ進んだ。上東門大路から西へ進み、縫殿寮の東南・朔平・玄輝の両門を経由して、登華・弘徽の両殿の西道から南へ進み、弘徽殿の南戸に当たって輿を下ろした。
親王・大臣・納言・参議・侍臣・諸衛の陣の列の順番は、行幸の時と同様であった。
皆、靴を着用していた。ただし、近代の先例には見えなかった。
大臣の扈従については、寛平三年月日、東院皇大后が東宮から内裏へ移御する日の日記に、大臣が伺候したことを注記している。この先例により、今日伺候したのである。
左大臣(藤原実頼)は、障りがあって参らなかった。〈「大臣は、今夜新宅に移った」という。〉
私は疑□を起こし、式部卿親王に言ったことには「延長元年十一月、皇后はこの寮から同殿にいらっしゃった。その時、もしかすると名対面はあるだろうか」という。親王が言ったことには「あの日は、障りがあって仕らなかった」という。□□宮大夫、大納言が様子を伺わせた。大夫が言ったことには「主上(村上天皇)も同じくこの殿にいらっしゃいました。命じて言ったことには『奉仕させよ』ということでした」という。左近少将(藤原)伊尹が問うて言ったことには「誰々が侍りますか」という。王卿はそれぞれ名を名乗り、退出した。
同刻、一品康子・無品昌子の両内親王が同輦にて参入した。同殿の西辺りに到り、輦を下りた。〈「去る延長元年の先例では、女官は歩行した」という。ところが「今夜は皆、車に乗って伺候した」という。〉
内裏御厨子所が大皇后の御膳を供奉した。冷然院が女房の饗を儲けた。碁手は三十連であった。
これより前、御輿が内裏に入られる前、本寮が献物した。その数は、枝物十捧、折櫃物十捧、酒一樽であった。「本寮の官人は禄を給わった。その法には、差があった」という。11月3日
夜、内蔵寮が饗宴を儲けた。11月4日
夜、穀倉院が饗宴を設けた。
「碁手の数は、二日と同じであった」という。
頭は、白い大褂一領であった。助二人〈一人は五位、もう一人は六位〉は、紅染の大褂各一領であった。允は黄衾各一條であった。11月11日 賀茂臨時祭について
内裏に参った。命じて言ったことには「(賀茂)臨時祭のことを、必ず定め申すように。その理由は、心喪を止めた大祓の後は、下の酉の日に行わなければならない。そうであればつまり、例によって歌舞を行うべきである。ところが、年内にそのようなことがあれば、もしかすると後の謗りを残すだろうか。これを如何しよう」という。11月12日
(藤原)伊尹に奏上させたという。
承平二年、指し示した障りはなかったが、十二月に行われた。辞別の文に言ったことには「大嘗会のため延期した」という。そうであればつまり、今年は十二月に行われるのがよろしいだろうか。仰って言ったことには「定め申した旨は、可である」という。12月15日 賀茂臨時祭の停止
賀茂臨時祭を今日行おうとした。ところが、誨子内親王が昨日薨じられた。未だ官奏を行っていないが、天聴に及んだため、急遽停止した。
▶天慶六年
https://note.com/yamimin/n/nb290019467c1
▶天慶七年
https://note.com/yamimin/n/ncb35ecc561f0?magazine_key=m211e61252b7e
▶天慶八年
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▶天慶九年
https://note.com/yamimin/n/nbeb1b5c5b4ad?magazine_key=m211e61252b7e
▶天暦元年
https://note.com/yamimin/n/n70ff8ec1f062?magazine_key=m211e61252b7e