【平安時代】藤原師輔の日記『九暦』の現代語訳―天暦元年(947年)
『九暦』の現代語訳
天暦元年(947年)
1月1日 四方拝
寅の刻、四方を拝した。
辰時、八省長楽門東廊の宿所に向かった。朝拝のためである。
文武官の装束は、悉く緩怠があった。そこで、外記・史に命じて催させた。外弁の上であることによる。
巳三刻、村上天皇が八省にいらっしゃった。
午三刻、外弁に上達部が座に着した。「午四刻、内弁大臣が座に着した」という。すぐに兵部を召し、槌で装させた。次に鼓を召した。
未一刻、列を引いた。
今日、私(藤原師輔)は奏賀を奉仕した。特に失儀はなかった。
申時、事が終わった。すぐに本宮にいらっしゃった。「節会の内弁は私であった」という。1月2日 朱雀院拝礼/太皇太后大饗
朱雀上皇を拝し奉ったとき、靴を履かなかった。平敷の座にいらっしゃったからである。
殿上の者ではなかった。仰せにより、侍の座に着した。上皇は御廂の平敷の御座であった。
拝礼・管弦があった。〈召しにより、南簀子敷に伺候したという。〉
侍従殿において中宮大饗があった。〈「侍従殿、朱雀院の内であった」という。〉1月12日〈戊戌〉 太政大臣大饗の停止
今日、殿(藤原忠平)の大饗があった。そこで、卯時に参入した。
□昨夜、御気上の後、今もご病気を患われている。そこで、急遽停止した。1月14日 藤原忠平に皮衣を献上
皮衣一領を殿(藤原忠平)に献上した。御衣が損傷したためである。1月15日 兵部手番
兵部手番があった。〈「兵部に向かった」という。〉1月20日 内宴の延引
殿(藤原忠平)のご病気のため、内宴を延期した。1月23日 内宴
内宴が行われた。内裏に参った。
殿上の装束は、すこぶる去る六年の先例に違えていた。そこで蔵人に示し、改めさせた。
未四刻、御座に就いた。公卿の遅参により、この時刻に及んだ。
雨儀のため、謝座・謝酒はなかった。また、列立せず、すぐに昇った。
その順番は、王卿・次将・内記、三献の後、文人を召した。次に私(藤原師輔)が坊奏を進めた。藤中納言(藤原元方)、左大弁(藤原在衡)が題を献じた。
中納言が進めた「花の気配が春風に染まる」という題を用いた。薫を韻とした。大弁に韻字を託させた。病のため、子の刻に退出した。典侍灌子を陪膳とした。
後で聞いたことには「寅の刻に事が終わった」という。2月3日
ある説によると「佐保殿は南方に当たらない」という。
「そこで、殿下(藤原忠平)のご病気はすこぶる小間があった」という。
今日、進発しようと思っていた。身代わりとして(藤原)伊尹を差し遣わした。
錦の五色の幣・神宝・舞人・走馬を献上した。2月9日
明け方、密かに大原に向かった。
雉二翼を得た。2月17日
女御が私(藤原師輔)の四十算を祝うために、2月25日
「朱雀上皇が北野で遊狩なさった」という。
病のため、参らなかった。2月26日
大入道殿の御元服があった。〈儀式があった。〉3月9日 朱雀院行幸
朱雀院行幸の儀式において、管弦があった。〈儀式があった。〉3月16日 中宮御八講
中宮(藤原穏子)の御八講が行われた。3月18日
御八講の五巻五事があった。〈捧物の儀式があった。〉3月19日
尚侍の家が、今日、誦経を奉仕された。
金百両を瑠璃壺一口に入れた。4月12日
内々に大臣に任じたことを仰られた。4月15日 朱雀院行幸
召しにより、院に参った。仰って言ったことには「先々、行幸の日に門の北の外において輿を下りた。遊事である。今日は中門で下りられた。もっともよろしい」という。4月16日
神事は、音楽を設け備えることを忌まなければならない。
弦歌に至っては何の妨げがあろうか。4月20日 一代一度の大神宝
一代一度神宝を諸社に奉られた。
〈「宣命は総じて五十三篇であった」という。〉4月23日 朱雀上皇の醍醐寺御幸
朱雀上皇が醍醐寺にお出かけになった。
〈粟田山口において御馬に乗った。〉4月26日 任大臣(右大臣)
任大臣があった。4月27日 任大臣の慶賀
諸所に慶賀を申した。5月2日 任大臣の慶賀
陽成院に参り、慶賀を申した。5月6日
兼字を給わる前に、手結の饗禄があった。5月8日
山階寺の歩みがあった。5月9日
任大臣、終わって昇殿があった。5月11日
昇殿により、慶賀を奏上した。7月16日〈己亥〉
左大臣(藤原実頼)が来たる二十五・六日に相撲召合を行うことを召し伝えた。ただし、音楽があってはならないという。7月23日〈丙午〉
普子内親王が薨じた旨を奏聞した。そこで、来る二十九日に改定した。
来月一日のことを左大臣(藤原実頼)が申し行った。7月27日
着座があった。〈儀式があった。〉閏7月10日
左大将の還饗があった。閏7月12日
右相撲の還饗があった。〈儀式があった。〉閏7月16日
辰の刻、左衛門陣に参った。
これより前に藤中納言(藤原)在衡が座にいて示したときに「時刻は巳に移り、必ず下り立たなければならない。ところが今日は、初めて参られるので吉日を計り選んだ。ところが、この陣に着したのであろうか。そこで用意するため、下り立たなかった」という。
答えて言ったことには「この儀式は、一の上卿の所作である」という。閏7月17日
在昌朝臣、仁王会の呪願を進上した。
朝綱朝臣にこのことを奏上させた。
朱雀上皇は、上にいた。陽成上皇は、下にいた。
この疑問を申させたところ、仰って言ったことには「陽成(上皇)が上にいなければならない」という。すぐに作者に下給し、改めさせた。
「また、奏書を御書所に下給して書かせた」という。閏7月20日
重光朝臣、及第させるようにとのことについて宣旨を下された。
左大臣(藤原実頼)がこのことを奉った。閏7月22日
「西塔院主照日を伝法阿闍梨とする宣旨が下された」という。9月19日
大臣の慶賀のために菩提寺に参り、拝賀を行った。
〈その後、諷誦を行った。〉11月18日
節会が行われた。〈子細があった。〉11月30日
弓場始が行われた。
主上(村上天皇)が先に射られ、的に当たった。12月 ※日不明
荷前、これは大神祭の後、立春の前に行うことである。
使者の差文もまた通例により、十三日に定めて奏上する。
ところが、今年の大神祭は十一日に当たる。立春は、十九日である。
もしかすると、十三日に使者を定めて奏上したならば、立春の前に遣る日は幾ばくもない。事の煩いがあるだろうか。
疑問があり、大外記(三統)公忠宿禰に命じて言ったことには「十二月中旬に立春があった時、使者を差し遣わした先例及び申の日に荷前を行った先例を調べるように」という。
七日、勘文を進上して言ったことには「仁寿二年十二月八日、荷前使の歴名を定めました。承平六年十二月八日、仁寿の先例により、公卿使を定めて奏上しました。また、申の日に行った先例は、貞観二年から承平四年に至るまで合わせて七度ありました」という。12月7日 荷前使を決定する
内裏に参った。外記に勘申の旨を奏上させた。
仰って言ったことには「今日、使者を差し遣わして定めるように」という。すぐに定めて奏上した。12月13日 荷前使の勤怠について
公忠宿禰が申して言ったことには「荷前使を欠いた侍従を罰する法は、式条に存在します。ところが年来、法に沿って糺し行わないため、真面目に勤める者が少なく、緩怠の輩が非常に多くいます。新たに定めて行われるのがよろしいでしょう」という。
すぐに外記が申した旨を右中弁(藤原)有相朝臣に奏聞させた。
仰って言ったことには「式条の他に、どうして新たに定めることがあろうか。式条に任せて行うように。ただし、当日になって、待賢門において障りを申した輩は真偽を決めるよう、必ず定めて宣旨を下すように」という。
宣旨を伝えるようにとの趣旨を、公忠宿禰に命じた。
また、公忠宿禰が申して言ったことには「使者に充てる侍従及び内舎人は、すでに少なくなっています」という。命じて言ったことには「先例により、高齢の人を差し出すように。また、内舎人の代わりには、散所の人を差し出すように」という。12月14日 荷前の宣旨
公忠宿禰が宣旨を案出して持って来た。
よろしくない諸所を改正した。
命じて言ったことには「早く中務省に下給するように。また、事の次いでがあれば、奏覧を経るために一通を(藤原)有相朝臣に託すように」と伝えた。その宣旨の案文は、この書の端に注記した。12月16日〈丙申〉 荷前
この日、荷前が行われた。
明け方になって、雪の深さが一寸程になった。
随身・近衛を差し遣わして装束使是除の許に示し送って言ったことには「昨日が晴れていたので、大場装束を奉仕したのであろうか。早く雨儀装束に改めるように。私自身はちょうど今参入した」という。
随身が帰って来て、申して言ったことには「仰せのとおり奉仕させました」という。
巳一刻、参入した。宜陽殿の座に着した。
左近官人を遣わし、中重装束が終わったかどうか見に行かせた。申して言ったことには「装束はすでに終わりました。弁・外記・史が伺候しました」という。
長楽門から出て、座に着した。
これより前、参議左兵衛(藤原)師尹が座にいた。
使者の参議以上八人の中、障りを申した者が五人、中納言(藤原)顕忠卿・(藤原)元方卿・権中納言(源)高明卿・参議(伴)保平朝臣であった。
そこで、先日の差文に入っていなかった参議(藤原)師氏朝臣・師尹朝臣及び班幣所参議(源)庶明朝臣を召し遣わして欠所を補った。
それでもなお不足があったため、権中納言(藤原)在衡・参議師氏が両所の使者を兼ねた。
参議が遅く参入した。召使に召し催させた。
午三刻になって、わずかに参入した。
外記是連が申して言ったことには「造酒正清鑑が急に参入しなくなりました。代官を賜りましょう」という。
外記が定め申したことにより、主殿頭時雨に奉仕させるようにとの旨を命じた。公忠宿禰が申して言ったことには「侍従は、ある者は待賢門に参って障りの旨を申し、ある者は故障を申しませんでした。その替わりを決定して行われるべきです」という。命じて言ったことには「待賢門に参った輩は、早く使者を遣わして実検させよ。ただし、長官に障りがあれば諸司の長官の中からふさわしい者を撰び、これに充てよ」という。
外記是連が申して言ったことには「先日の宣旨により、内舎人の不足分の代わりには散所の人を差し出して伝えました。ところが、ある者は障りの旨を申し、ある者は他所へ罷り去りました。このため、まだ五人不足しています」という。伝えて言ったことには「先例では、このような時に行ったのは如何であったか」という。申して言ったことには「省丞をその代わりとして補いました。それでもまだ不足があった時は、使者の内舎人がいなくても内豎・大舎人が先例によって供奉しました」という。命じて言ったことには「幣物を御前の墓に持ち参った際に、内舎人に欠員があれば、その他の内舎人で補うように」という。
午三刻「村上天皇が御出されました」という。そこで左近官人を召して案内を取ったところ「御出はすでに終わりました」という。
幣物を供したのは、通例のとおりであった。未一点、還御した。
すぐに長楽門から入り、殿上の座に着した。少納言・弁・外記・史は追従しなかった。未だに是非を知らない。また、左右兵衛陣を長楽門の東西の南庭に立てたのは、通例のとおりであった。12月17日〈丁酉〉
官奏に伺候したついでに仰って言ったことには「昨日の使者の侍従は、もしかすると欠怠があっただろうか」という。
奏上して言ったことには「不参及び故障を申した輩は多い。そこで、外記に注記し申させようと思う」という。12月19日
(源)俊朝臣に託し、外記勘文を奏上させた。
命じて言ったことには「不参の輩及び待賢門に参ったが病が顕著ではない輩については、宣旨に任せて解却するように」という。
事の趣旨は詳しく勘文に注記したため、詳しく記すことができなかった。12月20日
殿(藤原忠平)の許に参った。
侍従六人を解却されるようにとのことを執り申した。
仰って言ったことには「先例はすでにある。このことについて当時の人は恨みがあっても、法式に任せて行われることに何の問題があっただろうか」という。内裏に参った。宜陽殿の座に着した。中務大輔博雅朝臣を召し、刊じ棄てるべき侍従の夾名六人を書き出した。そして、これを下賜した。必ず詞で伝えなければならない。けれども、人数が多いため書き出したのである。
景行王・道風朝臣
以上二人は待賢門に参らず、また、障りの旨を申さなかった。
国淵朝臣・有融王・尹甫朝臣
三人は(待賢)門の外に参ったが、その病ははっきりと現れていなかった。
寛信朝臣
病の旨を申したが、自ら参らなかった。
「ただ、使者、召使に触れて去っただけである」という。詳しいことは勘文にある。そこで詳しく記さなかった。
勘申した、今月十六日の荷前に参らなかった次侍従及び散位の事
一次侍従不参
後田原
解 長官有融王〈待賢門に参った。そこで、官掌真髪部常雄を遣わし、実検を加えた。申して言ったことには「脚病は本当です。左右の脚が腫れております」という。〉
病の旨を申したが、顕著ではない。そこで、解却した。
解 次官小野朝臣道風〈待賢門に参らなかった。また、申したことはなかった。〉
長岡
次官藤原朝臣元並〈待賢門に参った。官掌常雄が申して言ったことには「月来、重病を治療したことは明白である。顔が痩せ衰えており、行歩に堪えられません」という。〉
仰って言ったことには「この人は、先日から病の聞こえはあったが、その身は(待賢)門の外に参った。計るに、助けがあって参ったのだろうか。ところが、事を病に寄せたので、奉仕しなかった。これを如何しよう」という。諸卿が一緒に定めて奏上して言ったことには「重病を患っている者は、平損の日に行歩することはできない。この人に至っては、すこぶる他人とは異なるか」という。命じて言ったことには「申した旨は、道理がないわけではない。原免に従え」という。
八島
解 次官源朝臣就〈待賢門に参らなかった。兄昭朝臣の喪の休暇によるものである。〉仰って言ったことには「喪に遭ったことは本当に明らかだが、どうして障りの旨を申さなかったのか。けれども解却に従うべきではない。ただし、障りを申さなかった理由について勘問するように」という。問うべき旨を公忠宿禰に命じた。
小野
解 次官景行王〈待賢門に参らなかった。また、申したことはなかった。〉
後山階
解 次官藤原朝臣尹甫〈事がようやく終わった時に、待賢門に参った。慌ただしい様子は、もっとも甚だしかった。上に執り申さなかった。ただし、実否を見させるために官掌依智秦良貞を遣わした。戻ってきて申して言ったことには「参ったのは本当でした。脚病を発症し、左右の脚が腫れたと申しました」という。〉
仰って言ったことには「もし故障があるならば、早くその旨を申すように。ところが、事が終わったときに障りの旨を申した。それだけではなく、その病は重くなかった。解却に従うように」という。
愛宕
解 長官源朝臣寛信〈待賢門に参らなかった。ただし、召使清科貞信が申して言ったことには「使者が来て言ったことには『昨日から霍乱を患い、非常に危急です。起き臥すことができません。そこで宅人がたった今この旨を申しました』ということでした」という。〉
仰って言ったことには「もし待賢門に参ることができないのならば、使者を私宅に給わり実検されるようにとの旨を申すべきであった。ところが、使者はただ召使に触れただけではっきりと外記所に告げなかった。申したことは確かではない。解却に従うように」という。
葛野
長官上毛野朝臣常行〈中宮の御消息によって免された。〉
十五日、中宮が仰って言ったことには「常行は腰病が発症したと申した。他の大夫がいるのならば、これを差し遣わすべきではない」という。
当日の早朝、使者に充ててはならない旨を公忠宿禰に命じた。
宇治
解 長官源朝臣国淵〈事が終わったとき待賢門に参り、官掌良貞に逢った。良貞が申して言ったことには「左側の脚に大きな瘡がありました。また、今夜、窃盗によって衣裳を奪われた旨を申し、朝衣を着ていませんでした」という。〉
仰って言ったことには「事ははっきりとしていない。解却に従うように」という。
一散位不参
平朝臣忠則 源朝臣兼
以上、式部大録長広兼が申して言ったことには「使部を巡らせ告げさせました。忠則朝臣がわずかに尋ね逢ったが、病の旨を廻文に注記して、堪えられないと申しました。裸袒で簾中に臥していました。
また、兼朝臣は在所を尋ね出すことが困難であった。そこで、伝えませんでした」という。
私(藤原師輔)が公忠宿禰に命じて言ったことには「伝え聞いたことには、式部省が新嘗会の明け方に参ったとき、荷前に伺候して儲けるべき散位大夫に誡め伝えて言ったことには『ところが、さらに廻文で伝え告げた』という。その理由を尋ね問うように」という。
以前、勘申したことはこのようである。
天暦元年十二月十七日、大外記三統宿禰公忠が勘申した。