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【平安時代】重明親王の日記『吏部王記』の現代語訳―天慶元年(938年)

吏部王(重明親王)の日記『吏部王記』の現代語訳です。
長いので年代別に分けています。
今回は天慶元年(938年)の分です。

天慶元年(938年)

1月

  • 1月4日 太政大臣大饗
    ★『西宮記』前田家本・巻一・年中行事・正月・二日臣家大饗
    太政大臣家(藤原忠平)の大饗所に詣でた。拝し終えて、主公が先に昇った。右大臣(藤原恒佐)は南の欄干を経由して座の北側から就き、及び史生を召した。右大臣はこれを許した。太政大臣は位階が高く、特別な存在である。必ず納言に准じて尊者の例としなければならない。主公が言ったことには「ところが、去年からこの例があった。未だに詳しくはわからない」という。

    ★『北山抄』巻第三・大饗事、裡書
    太政大臣家の饗宴があった。左大臣(藤原仲平)は病を称して来なかった。右大臣は南の欄干の後ろの座の北側を経由して就いた。

  • 1月7日 節会/叙位
    上(朱雀天皇)が両殿にいらっしゃった。新しく加えた者が二人いた。右大臣(藤原恒佐)が勅を奉り、内記を陣座に召した。事情を伝え、位記を作成させた。請印は、恒例のとおりであった。〈「主殿寮が屏幔を撤去した。掃部寮が軒廊を立案した」という。〉
    右大臣が座を起って、位記を奏上した。〈内記が筥を取ってこれに従った。〉その後、諸告身を賜い、内記に手順を改めさせた。〈内記は陣座においてこの事を改めて注記した。〉
    「その後また、御所に進んで蔵人に託した」という。

  • 1月14日 御斎会内論議
    官の幕所において、外記が日の上卿を申した。衆僧の参入を聴すべきだとという旨を以て、諸陣の書状を伝えた。「大納言(藤原扶幹)がこの事を許可した」という。
    僧都以上は、南面して西を上とした。律師は、西面して北を上とした。大威儀師は、凡僧の上に着した。北面して西を上とした。威儀師は長橋に留まった。

  • 1月16日 踏歌節会
    「(朱雀天皇は)いらっしゃらなかった。簾を施した」という。
    内弁右大臣(藤原)恒佐が座を起った。「近臣左少将当季が奏上した後、親王・公卿を参らせる」という。
    坊家別当左衛門督(藤原)実頼が座を起った。内侍が奏に就いた。踏歌は、恒例のとおりであった。「その後、内弁が御在所に就いて見参簿を奏上した」という。

2月

  • 2月6日 春日祭使を発遣
    「春日祭使は、左少将(藤原)師氏である」という。「至ってから装束を下給する王公・諸大夫がこれを執った」という。近衛は装束を改め、座に着した。すぐに挿頭を下給した。使者は、紅纓であった。陪従は、山吹であった。一緒に庭を降りて、駿河・求子の舞があった。その後、乗馬の度庭を出し召した。その後、内裏に参った。公卿は、しばらく弦歌を留めた。しばらくして、散帰した。

  • 3月29日 代明親王の一周忌法会
    醍醐寺に詣でた。
    故省卿(代明)親王の周忌の諷誦に参会した。本家の諷誦は、銭百貫文であった。女孫王は、絹十疋であった。家の諷誦は、銭十貫文であった。播磨守允明朝臣は、絹十疋であった。

  • 4月1日 旬
    右少弁源相職が左衛門督(藤原)実頼に仰って言ったことには「今日、(朱雀天皇は)いらっしゃらない。必ず先例によってこの事を行うように」という。終わって、三献の後、日の上卿が弁に命じて侍従を召した。四巡した。左大弁(源)是茂が日の上卿に申請し、座の録事を伝えた。〈左京大夫源仲宣朝臣・左馬助源朝臣清景であった。〉「申し終わり、見参簿を奏上した」という。

  • 5月22日〈戊辰〉 天慶に改元
    ★『改元部類』①
    改元し、天慶元年とした。
    左大臣(藤原仲平)が先ず殿に参った。詔書の案文を受け取り、陣に参った。
    大外記三統公忠を召し、仰って言ったことには「内記の者を召させよ」という。そこで使部を差し遣わし、これを召した。
    大内記菅原庶幾が参入した。大臣が詔書の草案を下給した。仰って言ったことには「清書を進上するように」という。〈左大臣は太政大臣(藤原忠平)の命により、左少弁兼文章博士大江朝綱に命じて、この詔書を作成させた。〉
    清書の後、庶幾が持ち参り、大臣に奉った。陣の座に座ったまま、蔵人右少弁相職を召し、このことを奏上させた。〈御物忌とはいえ、大臣はやはり御所の辺りに向かい、奏上させなければならない。ところが、陣座にいたまま奏上させた。これは、通例とするべきではない。〉
    返し下された後、大臣は中務少輔源鑑を召し、これを下給した。〈外記は前もって鑑を召し、陣の辺りに伺候させていた。〉鑑は本省を持って罷り、一通を写させた。奉行を宣し、捺印した。少録御立維宗を差し遣わし、外記局を進上させた。外記は、すぐに詔書の奥続紙に公卿の名所を書いた。史生品治保実に下給して言ったことには「明日の内に、各御署を下給するように〈上臈からその御名を下給した。〉」という。
    今日、事が終わった後、公卿以下は各々退出した。

    ★『改元部類』②
    改元し、天慶とした。
    天下に大赦して、大辟以下は罪の軽重がなかった。すでに発覚した者・未発覚の者・すでに結正した者・未結正の者及び八虐を犯した者は、皆悉く赦除した。
    また、一度の盗竊・計贓が三端以下の者も、同様に赦免した。
    ただし、強竊二盗・故殺・謀殺・私鋳銭を犯した者は、この限りではない。また、承平三年以降の調庸を進上していない民がいれば、同様に免除した。

    ★『政事要略』第三十・年中行事・御画事
    天が晴れた。
    上卿が遅参し、政はなかった。
    未四刻、左大臣(藤原仲平)・中納言藤原実頼卿が左近陣座に参り着した。〈左大臣及び中納言は、早朝に先ず参入した。太政大臣家(藤原忠平)の人である。〉
    参議源清蔭卿・同是茂朝臣・藤原顕忠朝臣・同師輔朝臣が前にいて、陣座に伺候した。この時、左大臣が大外記三統公忠を召し、仰って言ったことには「内記を召させるように」という。そこで使部を差し遣わし、あの所に遣わしてこれを召させた。
    大内記菅原庶幾が参入した。〈二十二・二十三日は内裏の御物忌である。そこで二十一日、蔵人右少弁源朝臣相職が太政大臣の仰せを蒙り、大外記公忠を召して言ったことには「明日、年号を改める事を行う予定である。しかし、御物忌に当たる。宜しく今夜、内記を召してあの所に伺候させるように。宿所を経由した後、詔書を書かせるように」という。すぐにあの所へ使部を差し遣わし、内記を召し遣わした。そこで、庶幾が参入した。今夜、あの局に宿直したのである。〉
    大臣が、詔書の草案を下給した。仰って言ったことには「清書を進上するように」という。〈「前左大臣がいた。太政大臣の仰せにより、左少弁兼文章博士大江朝臣朝綱にこの詔書を作成させた。また、文章博士二人が年号の字を勘申した」という。〉
    清書の後、庶幾が持ち参り、大臣の御前に置いた。退出して、陣座に伺候した。大臣は陣座にいたまま蔵人右少弁相職朝臣を召し、この詔書を奏上させた。〈御物忌とはいえ、大臣はやはり御所に向かいこの詔書を奏上させなければならない。ところが、陣座にいたまま奏聞させた。これは通例とするべきではない。〉
    奏聞の後、庶幾が持ち帰り、大臣に奉った。大臣は中務少輔源朝臣鑑を召し、これを下給した。〈敷政門から参入した。外記が前もって鑑朝臣を召し、陣の辺りに伺候させていた。〉鑑朝臣は本省に持ち罷り、さらに一通を写させた。宣旨を書くことを奉行し、捺印した。少録御立維宗朝臣を差し遣わし、外記局に進上させた。外記はすぐに詔書の奥に紙を注ぎ、公卿に名所を書かせた。史生一人を差し遣わし、公卿の御名を下給させた。〈上臈からその御名を下給させた。〉

  • 6月11日 神今食
    神今食祭があったという。
    丑二刻、左近将曹以上が大忌幕に就き、宿直を大将に申した。〈左大臣(藤原)仲平。中将が姓戸を唱えた。少将は姓名戸、六位の者は姓名を称した。〉
    丑三刻、右近府生以下が、また来て申した。権中将(藤原)師輔朝臣が言ったことには「公卿に申したところ、次官といってもやはり長官と同じである。ところが、府生が宿直を申すのは例に乖くことである」という。
    その後、内裏に還御した。大忌幕で謁見したことは、前例と同様であった。興に親しんだ少将は、誰であっただろうか。「親王以下参儀以上が名を申した。終わってから、退き罷った」という。

  • 6月23日 除目/藤原実頼の饗宴
    ★『西宮記』大永鈔本・第七冊・臨時六・節会警蹕事
    この日、除目があったという。
    (藤原)実頼を右近大将とした。この夕方、彼の饗所に詣でた。寝殿の南廂に席を敷いた。母屋に簾を施した。簾の前、南面に屏風を施した。南面して西の上に中将・少将の座を設けた。〈土鋪であった。上下の将は菌を加えた。少将は円座であった。〉
    北面して、垣下に王公の座を設けた。
    亥の刻、大将が慶賀を奏上した。終わってから来た。近衛が歌吹した。大将は、先ず垣下の座に就いた。次将を請うじて座に就いた。次に、王公が座に着した。すぐに机各一前を進めた。〈土器を用いた。〉近衛が調楽し、駿河舞を舞い、求子舞を舞った。その後、将曹以上が南欄に座った。府生以下は、庭の中に座った。〈北面して西を上とし、重座を敷いた。〉垣下、四位以下の者の座は東廂に敷いた。西面して南を上とした。五・六巡した頃、近衛に禄を下給した。

  • 9月15日 斎宮群行
    ★『西宮記』前田家本・巻八・臨時乙・行幸・群行・頭書
    「太政大臣(藤原忠平)が斎王の座を進上し、小櫛を加えた」という。
    大相公が言ったことには「今夜の路間において、小櫛を撤去してはならない。頓宮に到り、これを蔵すべきである」という。
    すぐに命令に従い、勢多に到り、これを蔵した。

  • 11月12日 地震
    ★『醍醐寺雑事記』
    卯の刻、地震があった。

  • 11月13日
    ★『醍醐寺雑事記』
    右中弁源公忠朝臣が来て言ったことには「先月二十七日、大相公の命令を蒙って言ったことには『先帝の御代、醍醐寺を建立された。年分度者・仏僧を皆準備して供した。ところが、未だに薫修する場所を定めていない。まだ準備ができていないからであるようだ。それだけではなく、示現があった。そこで、修法華三昧を始めようと思う。来年の春、その堂を造ることにした。その間、不住座主の房において早く修を始めさせようと思う。必ず年分度者の僧六口を以て、その事を修しなければならない。ただし、先例を調べたところ、御願寺の三昧料を公物に充てたことはなかった。必ず朱雀院庄の両所に施さなければならない。その地利を以て、日供の衣服料物に充てる。そもそも、その料物に充てる所はあるのだろうか。すぐに伊勢国曽禰庄・安芸国牛田庄の地子に命じて、合わせて米百石程をこの料物に足して充てる。公□院の諸庄の数は小さい。御後の親王・源氏に分配する所当は甚だ少ない。もし御願寺に施すならば、この料物を充てるのは甚だよろしい。けれども、公家は他の物を充てなかった。御後の得分を割るのは、すこぶる憚ることがある。必ずこの趣旨を以て触れなければならない。状況に従って、すぐに決定して行う』ということでした」という。
    すぐに答えて言ったことには「公家が推量して宜しく行われるべきことに、これ以上何の妨げがあろうか。まして前例を受け継いでいるようなことであればなおさらである。□功徳は、すぐに先帝の助けとなる。やはり甚だ随喜する。そもそも、もしかすると諸親王に告知させるべきであろうか」という。
    公忠が言ったことには「相公の命令の趣旨では、広く告げるべきではありません」という。

  • 11月24日 新嘗祭
    ★『政治要略』第二十六・年中行事・十一月二による
    簾を施した。
    御物忌のため、軒に臨まなかった。
    群臣が謝座して酒を飲んだのは、通常のとおりであった。
    小忌右大将(藤原)実頼が跪いて右脚に倚り、起って左脚に倚った。失儀で、便宜がなかった。
    三献の後、内弁民部卿(平)伊望が東簾の北の辺りに就いて奏上し、酒を賜わなければならない。けれども、内侍が伺候していなかった。内弁が程を推量して進上したのは、勅を奉ったのと同様であった。称唯し、退いた。
    右大将が門を出て、歌者を召した。承明門の東廊に入り伺候した。
    先例では、雨儀の場合は門壇に伺候した。供え張ったとはいえ、雨儀には詳しくない。すぐに晴儀により、この時、晴れた。もしくは、年頃の例により、台の南側に伺候する。もしくは雨儀により、すぐに門壇に陪従する。ところが、門の東廊の下に伺候しており、進退は拠り所を失った。もしかすると、前例があったのであろうか。
    初妓を進上した後、小忌府はまだ下りなかった。すぐに右衛門督(源)清蔭卿が内膳所を介して小忌の公卿に示させた。ところが、座を動かなかった。先例では、内弁が先ず大忌の親王を催し、座を避ける。私(重明親王)は教え示して止め、小忌が座を避けるのを待たせた。

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