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陰陽師たちの活動記録:光孝天皇時代

平安時代の陰陽師たちの活動記録をわかりやすく簡単に解説します。光孝天皇時代の陰陽師たちの活動を紹介しています。
安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史の中で活躍してきたことがわかります。

その他の時代の陰陽師たちの活動記録は以下のマガジンで確認できます。

活動記録

元慶八年(884)

◆9月29日 陰陽寮が天変を占う
元慶八年(884)9月29日丙戌、出羽国司が言ったことには「今年の六月二十九日、秋田城で雷雨があり、空が暗くなりました。石の鏃(やじり)が二十三枚、雨のように降ってきました。七月二日、飽海郡の海浜で石類の鏃が雨のように降ってきました。その切っ先はみな南に向かっていました」という。
陰陽寮が占って言ったことには「彼の国には、兵賊・疾疫の憂いがあります」という。(『日本三代実録』)

◆11月1日 御暦奏
元慶八年(884)11月1日戊午、光孝天皇が紫宸殿にお出ましになって行事を見た。中務省が陰陽寮を率いて内侍に就き、御暦を奏進した。(『日本三代実録』)

仁和元年(885)

◆1月8日 陰陽寮が犬の怪異を占う
仁和元年(885)1月8日甲子、紫宸殿の前版の上に犬の糞が残っていた。陰陽寮が占って言ったことには「兵火を慎むべきです」という。(『日本三代実録』)

◆4月1日 天文生春澤が捕縛される
仁和元年(885)4月1日乙卯、この夜、朝堂院近衛等を巡検して一人を捕らえた。松に油炭を加えたものを持って、たちまち火の中に入れた。その口を紙で縛った。その人は陰陽寮の陰陽師正六位上村国連業世の子で、春澤という天文生であった。尋問があり、春澤が言ったことには「母親のために小善を修めようと常住寺に向かいました。これは燃燈の道具で、奸心によって火の謀を行うものではありません」という。(『日本三代実録』)

◆4月27日 弓削是雄が陰陽頭に任じられる
仁和元年(885)4月27日辛巳、従五位下行陰陽権助弓削宿禰是雄が陰陽頭になった。(『日本三代実録』)

◆6月21日 陰陽寮が出羽国の天変を占う
仁和元年(885)6月21日甲戌、出羽国秋田城中及び飽海郡神宮寺西浜において石の鏃(やじり)の雨が降った。陰陽寮が言ったことには「凶狄・陰謀・兵乱のことがあります」という。神祇官が言ったことには「彼の国の飽海郡の大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃売神がこの怪異をなしています。その祟りは不敬に在ります」という。勅によって国宰に諸神を祀らせ、慎んで警固させた。(『日本三代実録』同年11月21日条)

◆8月1日 陰陽寮の言上によって太宰府等を警固させる
仁和元年(885)8月1日癸丑、北陸道の諸国及び長門国太宰府等に慎んで警固をさせた。陰陽寮が北境西垂に兵賊のことがあると言ったことによる。(『日本紀略』)

◆10月9日 陰陽寮が太宰府の怪異を占う
仁和元年(885)10月9日庚申、まず、太宰府が言上した。「肥前国では六月から雨が降っておりませんでした。七月十一日、国司が諸神へ幣を奉りました。延僧がお経を転読しました。十三日の夜、雲が陰って雨のような音が聞こえました。夜が明けて見ると粉土・屑砂が境内に落ちていました。水陸田苗稼、草木枝葉はみな尽く枯れていました。突然雨が降って塵砂を洗い去り、枯れてしまった苗が元に戻りました」という。薩摩国が言ったことには「同月十二日の夜、暗闇の中に星がまったく見えず、砂石が雨のように降ってきました。故実を調べたところ、頴娃郡正四位下開聞明神が怒ったときにこのようなことがありました。国宰が潔斎・奉幣を行うと、雨砂はたちまち止みました。八月十一日、雷のような音があり、炎がひどく燃え盛っていて、雨砂は地に満ちており、昼なのに夜のようでした。十二日、辰の刻から子の刻まで雷電があり、砂が降り止まず砂石が地に積み上がり、ある所では一尺以下、またある所では五、六寸以上ありました。田野は埋まり、人民が騒ぎ立てました」という。
その後、神祇官が占って言ったことには「粉土の怪異は、来年の春に彼の国が疫病の災いに見舞われる兆しです」という。陰陽寮が占って言ったことには「府の辺りの東南の神が隣国に移り、蚕麻穀稼にに損耗があります」という。そこで、府司に知らせてかの両国に部内の衆神に幣を奉らせ、祈願させた。(『日本三代実録』)

仁和二年(886)

◆4月17日 陰陽寮が出羽国の天変を占う
仁和二年(886)4月17日丙寅、出羽国に慎んで警固させた。去る二月に彼の国の飽海郡諸神社の辺りで石の鏃(やじり)の雨が降った。陰陽寮が占って言ったことには「兵賊の警鐘です。不慮の事態に備えるべきです」という。(『日本三代実録』)

◆5月26日 陰陽寮が石清水八幡大菩薩宮の怪異を占う
仁和二年(886)5月26日甲辰、この日、山城国石清水八幡大菩薩宮が自ら鳴動した。太鼓を叩くような音であった。南楼が鳴動し、風と波が相打つような音であった。数刻の間続いて止まなかった。神祇官が占って言ったことには「大菩薩の心に所願があります」という。陰陽寮が占って言ったことには「警兵のことがあります」という。(『日本三代実録』)

◆8月4日 陰陽寮が天変地異を占う
仁和二年(886)8月4日庚戌、安房国が言上した。去る五月二十四日の夕方、黒雲が南海から群起した。その中に電光が現れ雷鳴・地震があり、夜通し止まなかった。二十六日の明け方には雷電・風雨があり、巳の刻には晴れた。砂石・粉土が地上に満ちて、山野・田園で降らない所はなかった。厚さ二、三寸程であった。稼苗・草木はみな尽く枯れて、馬・牛の餌となる草も枯れてしまうことが甚だ多かった。陰陽寮が占って言ったことには「鬼気御霊が怒って祟りをなしています。かの国は疫病の患いを慎むべきです。また、東南の国に兵賊の乱があります。厳重に戒めるように」という。(『日本三代実録』)

◆9月17日 陰陽寮が神祇官とともに斎内親王の解除の吉日を占う
仁和二年(886)9月17日壬辰、内裏で犬が死んだ。斎内親王は今月十九日に解除を修する予定であった。しかし、穢によって停止した。公卿は左衛門陣において神祇官・陰陽寮を召して吉日を占い定め、二十四日になった。(『日本三代実録』)

◆10月9日 陰陽寮が邪気を払うための祭祀を修する
仁和二年(886)10月9日甲寅、陰陽寮に承明門の前において祭祀を修させた。邪気を払うためである。(『日本三代実録』)

◆11月1日 御暦奏
仁和二年(886)11月1日丙子、光孝天皇が紫宸殿にお出ましになり、中務省が陰陽寮の官人・暦博士を率いて、庭において御暦を奏進した。(『日本三代実録』)

仁和三年(887)

◆2月17日 山村曰佐得道が紀伊国権掾に任じられる
仁和三年(887)2月17日辛酉、外従五位下行陰陽博士山村曰佐得道が紀伊権掾になった。陰陽博士は元のとおりであった。(『日本三代実録』)

◆8月4日 陰陽寮が怪異について占う
仁和三年(887)8月4日乙巳、地震が五度あった。この日、達智門の上に気があった。煙のようで煙ではなく、虹のようで虹ではなく、天に飛んでいった。ある人が見て言ったことには「これは羽蟻である」という。時の人が言ったことには「今までこのような怪異は見たことがない」という。陰陽寮が占って言ったことには「大風・洪水・失火などの災いがあるでしょう」という。(『日本三代実録』)

◆8月12日 陰陽寮が鷺の怪異について占う
仁和三年(887)8月12日癸丑、鷺が朝堂院白虎楼豊楽院栖霞楼上に集まった。陰陽寮が占って言ったことには「失火のことを慎むべきです」という。(『日本三代実録』)


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