『晴明伝奇』第26話の解説
解説
内裏の宝物を捜索する
『村上天皇御記』天徳四年(960)9月24日条:
(源)延光朝臣を介して伝えさせて言ったことには「左右中少将を遣わし、温明殿に納めた神霊鏡及び大刀・契を探し求めよ」という。『村上天皇御記』同日条:
重光が言ったことには「温明殿に就いて求め得たのは、大魚形二隻、金・銀・銅の魚の符契、合わせて四十九隻です」という。『村上天皇御記』同日条:
重光朝臣が来て参って言ったことには「火気がほとんど消えたので、温明殿に罷り至って求め見たところ、瓦の上に鏡一面、径八寸程がありました。頭に小さい瑕がありましたが、ほとんど損傷はありませんでした。円規及び帯が非常にはっきりと露わになっていました。割れた瓦の上にありました。これを見た者で、驚感しなかったものはいませんでした。また、大刀・契を求め得ました。神鏡を縫殿寮の高殿に安置しました」という。
また、求め得たところ、大銅の魚形二隻〈女官が、あるいは言ったことには「これはまた、神です」という。けれども、未だ真偽はわからない。〉大刀四柄〈室握ならびに焼失した。ただ、種々の小調度を遺していた。〉、金・銀・銅の魚の符契、合わせて四十九隻〈あるいは「発兵・解をその国に符した」と銘があった。あるいは「その官」と銘じてあった。契は、みな魚形に作った。相合ったのは、木契の趣のようであった。また、片方が合わないものがあった。また、合って離れないものがあった。これは、焼損の致したものである。〉」という。
平将門の息子の流言
『扶桑略記』天徳四年(960)10月2日条:
右大将藤原(師尹)朝臣が奏上して言ったことには「近頃、人々が言ったことには『故平将門の息子が入京した』ということです」という。勅によって右衛門督朝忠朝臣が仰ったことには「検非違使に捜し求めさせるように」という。また、(源)延光が(源)満仲・義忠・春実にも同じく伺い求めるように命じた。
内裏修復
『村上天皇御記』天徳四年(960)9月28日条:
造営を定めた。参議(源)雅信がこのことを書いた。(中略)来年を造り終える時期とした。
陰陽寮が諸々の吉日吉時を勘申する
『村上天皇御記』天徳四年(960)10月1日条:
(源)延光朝臣を介して、左大臣(藤原実頼)は式部少録秦敦光の申した内侍所に坐す大神を縁さし奉ることについての文を奏上させた。
延光朝臣を介して、左大臣に件の鏡を納める韓櫃を始めて作る日時、また、何に大刀を錺り作る具を定めるべきかということについて伝えさせた。
左大臣は陰陽寮の選び申した斎鏡の御韓櫃を始めて作る日時の勘文〈始めて作るのは、今月五日午二点、納め奉るのは七日巳二点。〉
また、選び申した大刀・契の御韓櫃を始めて作られ、及び納め奉る日時に文〈始めて作るのは、今月五日・二十八日。納め奉るのは、十一月七日。〉を奏上させた。
仰らせたことには「大刀・契は必ず行幸に伺候するように。必ず冷泉院に移徙する前の日を選び申させるように。その他は、選び申した日に依り、七日に行うように」という。延光朝臣を介して民部卿藤原(在衡)朝臣に仰らせたことには「内侍所の印はすでに焼亡した。宜しく新たに鋳作するように」という。
村上天皇の冷泉院遷御
『村上天皇御記』天徳四年(960)10月22日条:
(源)延光朝臣が申して言ったことには「仰せによって(賀茂)保憲・(秦)具瞻・(文)道光を召しました。職御曹司から冷泉院を指すと、大将軍の方角に当たります。四十五日に満たないうちに遷御するのは、やはり忌むべきであろうか否か問いました。保憲が申したことには『忌む必要はありません。大将軍は年の忌みだからです』ということです。具瞻・道光が申したことには『忌まなければなりません。必ず当日は他所にいらっしゃり、かの院を吉方に当てて遷御するべきです』ということです」という。それぞれに勘文を進上させるよう命じた。『村上天皇御記』同日条:
九月二十三日の夜、内裏が焼亡した。そこで職曹司に移御した。
天文博士(賀茂)保憲を召し、冷泉院に遷御するのは、内裏から御忌方に当たるか否かについて定め申させた。保憲が申して言ったことには「一方分法によってこれを計ると、件の院は巽の方角に当たります。今年、大将軍は午の方角に在ります。南方を領すべきです。すなわち巳・丙・午・丁・未の五辰です。巽の方角に至っては、維地です。これを忌む必要はありません」という。『村上天皇御記』同年10月23日条:
(源)延光朝臣が申したことには「(賀茂)保憲が申して言ったことには『職御曹司に遷御した後、四十五日に満ちていません。御忌は、やはり内裏に留まっていることによります』ということです。(文)道光が申して言ったことには『御忌は、身に従わなければなりません。そうであればここから彼の院を指すと、大将軍の方角に当たります』ということです」という。決定があって、やはり彼の院に移るため、宜しく出発する門を勘申させる〈二十六日〉。『村上天皇御記』同年11月4日条:
冷泉院に遷った。御輿を西門に留め、神祇官が御麻を奉った。西門から入御した。陰陽頭(秦)具瞻が前行した。次に、童女四人〈一人が脂燭を手に持った。一人が楾水を手に持った。二人が黄牛各一頭を牽いた。二人が相並んで輿の前にいた。左右大将の前に当たり、立って行った。これは元慶のとき、内裏に遷御したときの前例である。牛は左大臣家(藤原実頼)が献上したものである。件の女は、予め御匣殿別当典侍灌子・掌侍鮮木子・乳母和子に命じて貢じたものである。〉」という。五菓があった。
霊剣の修復
『村上天皇御記』天徳四年(960)11月9日条:
左大臣(藤原実頼)に、早く焼損した節刀を始めて作る日時を勘申させるようにと伝えさせた。『左大史小槻季継記』安貞二年一月二十四日条:
天徳四年の秋、内裏が焼損した。これによって、賀茂保憲朝臣に命じて御剣を再鋳造させた。
💠参考:焼損した二柄の霊剣について
鎌倉時代の辞書『塵袋』巻八によると、二本の剣はそれぞれ護身剣と破敵剣という名前で、庚申正月に百済国で鋳造された。
霊剣の左右には文様が刻まれていたという。
護身剣:左側→太陽、南斗六星、朱雀、青龍
右側→月、北斗七星、玄武、白虎
破敵剣:左側→三皇子五帝形、南斗六星、青龍、西王母の兵刃符
右側→北極五星、北斗七星、白虎、老子の破敵符『村上天皇御記』同年12月12日条:
未の刻、内侍所に納める大刀をこの院の厩町の直盧において琢磨させた。『塵袋』同日条:
安倍晴明は天徳内裏焼亡において焼損した霊剣の修復を承り、宜陽殿の作物所において鋳造させた。庁町の直盧にて研ぎ磨いた。鍛治は内蔵属実行が務めた。『村上天皇御記』応和元年(961)6月28日条:
この日、神護寺において天文博士(賀茂)保憲に五方五帝祭を修させた。焼損した節刀の中で、霊剣二柄を治鋳するためである。
※五帝…歳星(木星)・熒惑星(火星)・鎮星(土星)・太白星(金星)・辰星(水星)から成る五つの星を神様とみなしたもの
💠参考:祭祀の役割
『大刀契事』によると、次の役割で行われたという。
★祝(祭文などを読む) 天文博士・賀茂保憲
★奉礼(進行役) 天文得業生・安倍晴明
★祭郎(供物を配置する) 暦得業生・味部好相(あじべのよしみ)『塵袋』同日条:
天文博士賀茂保憲は神護寺において三方五帝祭を務めた。これは、霊剣を鋳造するための祈祷である。備前国鍛治白根安生が鋳造して進めた。焼け失せた代わりに新造したのだ。
天徳→応和へ改元
『村上天皇御記』応和元年(961)2月16日条:
(源)延光朝臣を介して、左大臣(藤原実頼)に、今日改元を行うこと、兼ねて赦のことを行わせるか否かについて伝えさせた。大臣が申させて言ったことには「火災の後、変異が止みません。必ず赦のことを行うべきです」という。
文章博士が勘申した年号、中納言大江朝臣が選び申した年号の字の文を給わらせ、件の字の中で忌みがなく、称謂に便のある字を定め申させた。
また、赦免を行う罪の程度を勘申させた。大臣が(菅原)文時が進めた前年の勘文の案・外記勘文・恩詔の例文を奏上させた。仰って言ったことには「応和を年号とするように。また、延喜元年の詔の法に依り、赦を行い、及び物を下賜するように」という。『村上天皇御記』同日条:
陰陽寮が申したことには「今年は革命に当たります。宜しく改元するべきです。それだけではなく、天徳は火神の名です。もっともその忌みがあるでしょう」という。そこで天徳五年を改め、応和元年とする詔を下した。