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【平安時代】藤原師輔の日記『九暦』の現代語訳―天慶八年(945年)

『九暦』の現代語訳

天慶八年(945年)

  • 1月5日〈壬寅〉 右大臣大饗
    💠
    陰陽頭 文武兼が大饗に招かれた記述あり
    朝陰り、晩に晴れた。早朝、殿(藤原忠平)に参った。巳刻、退出した。
    今日は、右大臣(藤原実頼)の大饗である。午時、その殿に向かった〈小野家〉。
    請客使の内蔵頭(藤原)朝忠朝臣が戻ってきた。
    「左大臣(藤原仲平)は固い御物忌のため、消息を申すことができませんでした」という。
    未刻、納言以下が座を起った。西中門から入り、南庭に列立した。
    参議以上が一列、弁・少納言が一列・外記・史が一列、大夫外記もこの列にいた。並びに北面東上〈大納言が一の客である時は、主人と一緒に昇る。また、後に昇る。〉。
    これより前、主人の大臣が南階の東掖に立った。立つ場所を定めて、共に拝礼した。主人が答拝を終えて、共に揖し立った。主人の大臣が私(藤原師輔)に目配せした。そこで、階の西南の頭に進み立った。〈階を去ることは一ばかり丈であった。〉
    大臣が先に昇り、座に着した。〈延喜年間は、殿の大饗の日、大納言を一の客とした。拝礼が終わると、大閤は一大納言と一緒に昇る。ただし、大閤はすこぶる進む。ところが、去年の四月九日及び今日は、主人が先に昇ってから大納言が昇った。〉
    弁・少納言が西階から昇り、西廂の座に着した。
    外記・史が西対に昇り、座に着した。その座は、同対の東廂にあった。
    尊者(藤原実頼)の座は、寝殿の母屋の西面であった。赤木机四前を立てた。納言以下の座は、南北面の東上であった。黒柿机十八前を立てた。〈三重、立てた。一行六前。〉弁・少納言の座は、東西面であった。榻足机十二前を立てた。〈口絹面を二重に立てた。一行六前。〉垣下の親王の座は、南廂の西二・三間にあった。北面東上。黒柿机各一前を立てた。主人大臣の座は、南廂西第五間にあった。西面。讃岐円座を一枚敷いた。机一前を座の後ろの東方に立てた。南北を妻とした。机ごとに簀薦があった。俎上は、詳しく注記することができなかった。使用した屏風及び舗設は、殿(藤原忠平)の大饗と同じであった。史生の座は、南中島にあった。幄二宇を東西に立てた。併せて南北を妻とした。北を上とした。使部の座は、小路の西厩町にあった。

    三献の後、権右少弁源朝臣俊が進んで、史生を召すべきだと申した。許しがあった。召仰は、通例のとおりであった。
    垣下の親王は、式部卿敦実・弾正尹元平・兵部卿元長・中務卿重明・式明・有明・章明の合計七ヶ所、次々に勧盃した。

    三献の後、客の上達部もまた、次々に勧盃した。五巡した後、録事を賜った。弁・少納言の座、右近少将良峯・義方朝臣・同少将藤原朝臣真忠であった。外記・史の座、主殿頭橘朝臣敏仲・伊勢介藤原朝臣国均であった。主人大臣が召仰を行っている間、これらの大夫四人は南簀子敷に跪き伺候していた。北面東上。各々、当所に着するよう仰られた。

    しばらくして、陰陽頭文宿禰武兼・散位六人部宿禰三常を召した。この両大夫は、南階の東掖に進み立った。主人大臣が、史生の座の録事に奉仕するようにと命じた。仰せを奉り、各々、史生の座に着した。主人大臣が事を行った。

    一世源氏の料机を南簀子敷に立たせた。すぐに源氏を着させた。ただし、座の畳は初めから敷いていた。大臣が盃を取って源氏に勧めた。家司は禄布の中取二脚を積ませ、南庭に持って立った。勘解由主典浅井守行が名を召した。史生に禄を下賜した。七、八巡した後、親王・公卿が南簀子敷に出居した。円座敷枚を隠座に施した。肴物を羞した。
    前ごとに折敷三枚を敷いた。二、三巡した後、史・外記の禄を下給した。次に弁・少納言、その次に垣下の親王。次に引出物があった。上臈の親王四人にそれぞれ馬一疋であった。次の親王二人にそれぞれ鷹一聯であった。ただし、章明親王は禄を下給する前に退出した。

    戌時、各々解散した。今日は、雅楽寮の音楽はなかった。
    これは、殿下(藤原忠平)のご病気がまだ完治していないからである。

    【禄法】
    親王・中納言以上 〈白い大褂二領〉
    参議 〈紅花染の褂二領〉
    弁・少納言 〈紅衾各二条〉
    外記・史客 〈紅衾一条〉
    引出物が諸所に送られた。
    殿から一疋 藤宰相一疋
    頭中将一疋

  • 2月13日 列見
    雨儀であったという。
    終わってから、上達部が西廊において浅履を着用して朝所に着した。
    一献が下った。下る間、少納言に命じて罰酒を飲ませたということだ。
    終わってから、宴座に着した。三献が終わってから退出した。
    私(藤原師輔)は障りの旨を両中納言に触れ、退出して隠座に着さなかった。
    その理由は、中務宮(重明親王)の妻の喪のため、先月二十三日に喪服を着用した。音楽・挿頭の間、憚りがないわけではなかった。
    また、尊者はすでに喪服を着用していた。音楽は自ら停止に従ったのだろうか。
    また、疑うに日上ではない公卿は、当日のことを行い難い。そうであればつまり、誰がこのことを停止させたのだろうか。私自身に至っては、また、どうしてこのことを停めさせるだろう。この疑いのため、退出したのである。

    去る延喜十二季の列見では、紀中納言の薨日が近いので、この二事を停止した。上卿の軽服によって停止した前例は未だに見たことがない。しっかり旧例を調べ、注記しておかなければならないということだ。
    〈「十一日、官の物忌のため、左大弁が太政大臣殿(藤原忠平)に申し、延期して行いました」という。〉

  • 6月17日 軒廊御卜
    公卿の座が左近陣にあるときは、この諸司の座は中央を上とする。
    今、公卿の座は宜陽殿の西庇にある。
    そこで、便宜を計って天慶年間から改めて敷いたのである。

  • 8月14日 定考
    隠座であった。左大弁(藤原在衡)が勧盃した。〈大弁は、座に着していた。上が勧盃した。その他は、下においてこれを勧めた。ただし非参議右大弁の前例を見たことがない。故実を調べるべきである。〉
    三献が終わった。大弁が笏を取って言ったことには「史生を召そう」という。上卿は承諾した。大弁が史を召し、召した理由を伝えたということだ。
    また、笏を取って言ったことには「近辺の諸司を召そう」という。上卿は承諾した。大弁は史を召し、このことを伝えたという。終わってから直幹を召し、弁・少納言の座の末席に着させた。

    定考があったという。私(藤原師輔)が左大弁に示して言ったことには「列見・考定の日に第一の史が勧盃しようと欲することについては、大弁が先に上卿に申して行ったのか」という。
    大弁が言ったことには「頃年、処分を蒙らなかった。前例に任せて勧盃を行った」という。
    私が、また言ったことには「殿下(藤原忠平)が仰って言ったことには『史某が勧盃させることを上卿に申した後、その許容を承ってこのことを献じさせる』ということだ」という。

    隠座に着した。〈一献の後、粉熟を献じた。〉
    弁・少納言の座は、一献の後に簀薦を鋪き、肴物を置いた。三献が終わった。

    大弁が笏を取って言ったことには「史生を喚ぼう」という。上卿は承諾した。大弁が史を召し、召した理由を伝えたという。
    また、笏を取って言ったことには「近辺の諸司を召そう」という。上卿は承諾した。大弁は史を召し、このことを伝えたという。

    終わってから、大弁が言ったことには「通例により、挿頭を伺候する。ところが、散斎のため音楽を停止している。〈昨日、伊勢使が出立した。そこで今日、散斎を行ったのである。〉これを如何しよう」という。
    答えて言ったことには「先年は、中宮のご病気の間は音楽を停止し、挿頭はなかった。未だにその便宜はわからない」という。
    参議が言ったことには「このことを献じるのに何の難があるだろうか」という。私は、このことに従った。左大弁が一枝を私の冠の下に挿した。

    外記真能が来て言ったことには「年来、太政大臣(藤原忠平)は参られずとも見参に入れ奉りました。また、右大臣(藤原実頼)が内裏に参りました」という。
    命じて言ったことには「早く入れ奉るように」という。

    左大史実平が見参を取って伺候したということだ。
    「式のようであれば、臝老にして杖を執る者が参らなかったといっても、賜禄の前例に預かるべきである。左大弁及び民部卿(藤原)忠文は見参に入れるように」という。左大弁が言ったことには「左右、命令に従う。ただし、去年の節会の日に左大臣(藤原仲平)は参られなかった。ところが、見参に預からなかった。今日のことは准えるべきであろうか」という。

    事が終わって、すぐに殿(藤原忠平)の許に参った。今日の行事について申した。
    仰って言ったことには「高齢の人が参入せずとも見参に入れることに、何の問題があろうか。挿頭は、音楽による興である。音楽を停止するとともに停めなければならない」という。今後は、この命令に従う。

  • 10月1日 旬
    天が陰った。
    勧学院の椎樹の怪異による物忌は、今日・明日に当たる。
    けれども、公事を勤めるために内裏に参ろうと思った。
    先に、殿(藤原忠平)の許に参った。旬の日の儀式を承るなか、すこぶる疑いがあることを申した。そこで、朝の障りを申した。

    一、内裏式と同じであれば、監物、御鎰を返して進める奏上がなければならない。ところが、年々の日記には給わったときの奏上を注記しているだけで、進上したときの奏上を注記していない。もしくは、これは日記を省略したのであろうか。命じて言ったことには「このことは式条にあるが、年々の儀式を見ると、敢えて返し進めた奏上がない」という。

    一、旬の日に親王が三人以上参入したとき、出居の次将は掃部を召し、兀子を立てさせるのが通例である。今、疑問に思うのは、掃部を召した後にほかの親王が参入したら、出居は再び掃部を召すべきであろうか。仰って言ったことには「再び掃部を召したことは、見たことがない」という。

    一、延喜二年の日記では、一の下器の前に侍従厨家が御贄を献上することを注記している。ところが、年来は一の下器の後に献上している。今、このことを考えると、この御贄は御膳に供えるためのものである。そうであればつまり、あの延喜二年の前例によって献上させるのは如何であろう。仰って言ったことには「述べた内容は、もっともなことである。ただし、このようなことは近年の前例に従うように」という。

    一、四月の駒牽の日、献物及び踏歌の後宴及び臨時献物のとき、必ず問いを待って献上すると称し、次に物の名を奏上する。ところが、近代の前例を見ると、旬の日の侍従厨家の御贄は問いを待たずにこのことを称する。このことについて疑問があったので、年々の日記を引いて調べたところ、元慶八年四月一日の日記に言ったことには「殿上の侍臣が問うて言ったことには『何の物であるか』という。五位が称唯して、申して言ったことには『侍従厨家が献上した御贄です』という」という。この前例に従わせるのは如何であろう。仰って言ったことには「このことは、もっともその通りである。ただし先帝の御時は、諸事を糺して行わせた。けれどもあの時、やはり元慶の前例を問わなかった。もしくは、誤りであろうか。その時、改定したのであろうか。やはり近例に従うように」という。

    一、年々の前例を見ると、日上が陣座に着して、見参文を見る。ところが、延喜三年の日記に言ったことには「大臣が独り床子に就き、外記は見参及び目録書を持って大臣に奏覧する」という。どちらを善しとするか。仰って言ったことには「陣座に着し、見参を見る。これがよい」という。

    一、殿下が仰って言ったことには「今日は、旬である。氷魚を下給する儀式についてえ、陪膳の采女が天気に従って供御の膳の氷魚を執り、王卿の座に来る。貫首の者は跪いて伝え取り、大盤に置き、戻って本座に着する。内豎を召させて引き下し、人ごとに匕で一度掻い取る」という。

    一、仰って言ったことには「四月一日の旬において、御扇を下給する儀式は大抵このようである」という。申して言ったことには「御扇を給わった後、もしや拝舞があるでしょうか」という。仰って言ったことには「拝舞のことは、はっきりとはわからない」という。

    大外記(三統)公忠宿禰が申して言ったことには「大監物は病を申して参りません」という。
    命じて言ったことには「重病でないのならば参入するようにと、再度遣わして伝えるように」という。「そもそも、六位の監物が御鎰奏を行った前例はあるのでしょうか」という。
    申して言ったことには「『未だかつてその前例はない』という。ただし、内裏式に監物が奏上したことを記載している。大・中・少の区別はない。
    先年、太政殿下(藤原忠平)が仰って言ったことには『大監物が伺候していない日は、六位の監物が御鎰奏を奉仕することに何の問題があろうか』ということだ」という。
    (藤原)師尹朝臣に大監物が伺候していない旨を奏上させた。仰って言ったことには「大監物が参らないのであれば、御鎰奏を中止するように」という。

    闈司二人が左掖門から入り、列の官人の上に立った。
    一々、上に転じた。右衛門尉紀鈍之が跪いて弓を置き、本の列を離れて真忠の下に加わって立った。
    当樹〈六位〉が三枚を取り重ね、第一の闈司に授けた。また、三枚を取り重ね、第二の闈司に授けた。先例では、闈司が取り重ねる。ところが、当樹が闈司の替わりに取り重ねた。礼節を失ったと言うべきであろう。

    左近将監播万当樹が本の列を離れ、国紀の下に立った。
    右兵衛佐が目配せをされたため、驚いて真忠の上に立った。右中将は跪いて弓を置き、それから立って奏上したということだ。

  • 12月20日〈壬午〉 荷前
    午後、甚だ雪が降った。
    この日、荷前が行われた。
    私(藤原師輔)は特に固い物忌に当たっていたので、障りの旨を申そうと思っていた。
    ところが、昨日内裏に参ったついでに大外記(三統)公忠宿禰が申して言ったことには「源中納言(清蔭)が、今日、三日間の假文を提出しました。左衛門督(藤原顕忠)は去る十月の朔日から病を称して、今も参られておりません。藤中納言(藤原元方)は去る十七日に三日間の假文を提出しました。そうであればつまり、明日は仮の外です。ところが今日、再び示して言ったことには『所労は未だ平癒していない。このため、明日参ることはできない』ということでした。また、侍従大夫十一人が各々障りの旨を申しました。式部省が設け伺候させる散位の大夫は十人です。今、障りを申した侍従が大勢いて、あの省の設けた所の大夫を充ててもなお不足があります。必ず処分を蒙り、高齢の大夫を召して伝えなければなりません」という。命じて言ったことには「大臣が執り申されるべきことである」という。

    公忠宿禰が再び申して言ったことには「大臣は、昨日と今日、特に固い御物忌です。明朝、申し行おうとしましたが、事は倉卒であり、仰せを承った大夫が参り難いでしょうか」という。早く召して伝えるようにと命じた。

    私がもし参らなければ、納言は今まで一人も参らなかったのだ。
    そこで、密かに外記千桂に命じて、天智天皇陵に参議が参った前例を調べさせた。
    千桂が申して言ったことには「延喜八年以来、もっぱらこの前例はありません。あの年以降の差文・日記は零落しており、調べることができませんでした」という。

    当日の辰時、物忌ではあるが公事を恐れるため参入しようと思っていたとき、ある人が言ったことには「女御熈子の母氏仁善子が、この明け方、卒去しました」という。身の仮があったので、すぐに参り難かった。書状を右大臣に申し送って言ったことには「あれそれは、このようなことでした。もし参入されないのであれば、私は、ただ参入するべきではありません。命令に従って進退します」という。

    午の刻、内裏に参った。
    雨儀のため、大臣以下及び使者の侍従・弁・少納言・史・外記・内舎人は中重の廊の座に着した。
    先例では、公卿の座は長楽門より西の四間、東を上とする。ところが今日は、西を上とした。先例と違っているのは、もっとも甚だしい。
    障りを申した大夫は、通例によって待賢門に伺候している旨を、公忠宿禰が大臣に執り申した。
    官掌を遣わし、実検させるようにと仰られた。さらに、設けた大夫を差し充てた。使者の大夫は私及び参議(源)高明・(伴)保平・(藤原)在衡・(藤原)師氏・(藤原)師尹であった。この他は皆、障りの旨を申した。

    未の刻、使者の大夫及び内舎人が座を起った。
    長楽門の南屏幔の南を経由して、承明門東掖の幔内から同門の壇上に昇り、□立った。
    これより前、左右兵衛の陣を長楽門より南に並ばせた。遅く並んだため、上卿が外記に命じて催し並ばせた。
    同二刻、朱雀天皇が御座〈宜陽殿西廂〉に着した。使者の上達部が座を起ち、砌を経て西に渡り、幔内に入って承明門の壇上に立った。剣を身に着けていた者は、剣を解いた。内豎・大舎人・内舎人に命じて、幣物を長楽門閾外に舁き立たせた。長官・次官は一緒に同門から舁き入り、南廊北砌及び春興殿西廂を経由して、同廂北砌に立った。〈手を兼ねた上達部は、さらに長楽門に到らなかった。使者の次官は春興殿南廊に舁き立て、それより北の上達部がこれを舁いた。〉
    東西を妻として、東を上とした。〈これらの幣物を舁いている間、ある上臈は東に在り、ある上臈は西に在った。また、退出するとき、あるときは長官が先に在った。あるときは次官が先に在った。未だにどちらが是かわからない。〉

    それぞれ、舁き立て終わってから、春興殿南廊に退き立った。左近官人の告げに従い、また進んで舁き出した。ただし、手を兼ねている者は先に初めの幣を春興殿南廊に舁き出し、さらに戻ってからまた舁き出した。その次第は、通例のとおりであった。詳しく記すことはできなかった。
    上達部が長楽門閾外に舁き立てたのは、初めと同じであった。
    南廊を経由して承明門に到り、衛府を帯びている者は剣を身に着け、兵衛陣の南を経由して春華門から退出した。
    ただし、西方に参る使者は修明門から出た。
    私は、山階使となった。坊城家に帰り、盃酒を次官左京大夫国淵朝臣以下に勧めた。主人の前机は一前〈先例では、折敷六枚を用いた。ところが、今回は誤って机を用いた。〉
    次官の前机は三前、内舎人は二前、内豎・大舎人は各一前であった。

    申の刻、山陵に参った。
    酉の刻、参り着し、御在所に到ったとき、陵戸が盥水を設けた。盥洗し、次官と一緒に御前に舁き立てた。〈先例では、内豎・大舎人にこれを舁き立たせた。よくよく事情を考えたところ、やはり長官・次官が自ら舁き立てるべきであった。そこで今年は、自らこれを舁き立てた。〉
    次に、座に着した。事情を申して、両段再拝した。次官も従って拝した。内豎・大舎人は一緒に幣物を出して棚上に置き、松でこれを焼いた。
    事が終わって、戌の刻、家に帰った。酒食を権随身に下給した。次にまた、禄を下給した。将監には、白張の細長一襲。将曹には、同じ細長一領。府生には、疋絹。番長には、甲斐布四端。近衛五人には、それぞれ二端。次官は通例によって返事を奏上した。

    今夜は、御仏名初である。必ず参入しなければならない。ところが、往還の間、大雪に遭い、心身は穏やかではない。それだけではなく、固い物忌である。夜通し伺候するのは難しい。そこで、参らなかった。

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